おもしろいことに人類の想像力にはある種のリミットが設けられており、「やってはじめてわかる」という類の知識が存在するらしい。そういったものを暗黙知と名付けた人もいるらしいが、実際のところこれは身体によって知覚される知識そのものである。つまり同種の人々が形式知と呼ぶものこそが知識の特殊形態、人類の共通知識へと埋め込まれた形の劣化した圧縮済の情報であって、身体のセンサ入力すべてを使って表現されるものこそが人類にとって本来の知識である。

この誤謬は人類にとって最も根源的なものであるらしく、それというのも人類が21世紀まで社会動物として暮らしてきたことが原因である。脳内言語を共有可能な自動機械を持たない生身の人類というものは極めて生産効率が低く、自己の獲得した知識を使った生産よりも共通化した量子化情報による共同生産の効率が高いというジレンマがあった。したがって多くの人間が共通情報へのアクセス権や所有権を価値あるもの、つまり「知識」そのものであると考えるようになったのも無理からぬことである。

多くのエージェントが同様に抱いている共通の幻想と現実世界の慣性力の差に着目して希少性を発見することは、現在ではもはや人類の反応速度の次元を超えてしまっているが、当時は人類による数年~数十年という試行錯誤を必要とした。そして発見された希少性は、いわゆる「暗黙知」の共通知識化によって報酬と変換することができた。つまり多くのエージェントが「知識」というものの本質を誤解していたために、本来の知識である「暗黙知」の探索はあまり積極的に行われず、希少性の発見方法として有力だったのである。

当時の人類は約百年という共通化された寿命時間内での生存を余儀なくされていたので、数年から数十年は必要な「やってはじめてわかる」ような知識獲得には「知識」の誤謬だけではなく、多くの精神的ハードルが存在した。本当に望む成果を達成できるかという不安や、継続的なタスクに伴う関心の低下等である。

言うなれば当時の人類の希少性発見プロセスには大きく2つの問題があったのである:

  • 「形式知」と「暗黙知」の重要度を見誤っていたこと
  • 希少性探索エージェントへのサポート不足

このどちらもが、知識生産工程への人類の理解がまだ発展途上だったことに起因している。結果として希少性探索エージェントの数は全エージェント数に比して極めて少なく、単位時間ごとの希少性発見数も大きくは向上しなかった。

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