世界中で神話とされる物語の中で、英雄とは死と誕生を繰り返す存在であるという。

死と誕生、それはまさに変化のみを知覚することのできる人間にとって「生命」を表現する最も直接的な表現なのではなかろうか。

美術の主題の多くが人の顔や生命になってしまうことは、美しさではなく生命こそが賛美すべき主題だからであって、その視点においては抽象的な異質さを美しさと認めることも、ダイナミックで複雑な生命を賛美するということの逆説にほかならないのではないか。つまり円や三角のような幾何学形状に美しさを見出すとき、そこには「これは生命とは異質な存在ゆえに注目すべきである(美しい)」という演算が行われていて、それは逆説的に「生命は生命と寄り合い生きていくことを自然とする(ゆえに非生命が異質なのである)」行動様式の帰結であると考えられるからである。

自然であることは安心を与える。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、つかの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がくだる。

安心でない、つまり不安であるときになぜ芸術を求めるのか。その多くのものが美しく、美しさとは生命(自然)に根ざしているからではないか。

生命による生命の賛美。これこそはまさに『ツァラトゥストラかく語りき』において言われた「自らの力で回る車輪」、「子ども」そのもののことだ。生命は生命の力を精神的な側面においても糧にして動き続ける自走機械、そのブートストラッピングはいつも生命と生命の出会いによってもたらされる。

人間が情報を快楽に感じることも、異なる生命との同期信号がそこから読み取れるからだろう。少し触れるだけで、チャットで言葉をかけあうだけで生命は賛美すべきものに出会い(=快楽を感じ)、クロックを合わせようとする。それこそが生命という機械に定められたルールだ。

なぜ絵画は音楽や映画ほどには人を感動させないか。そこから放たれる情報が、(多くを読み取れる人でない限り)静的で一度限りだからだ。それは美しさの本質に根ざしているかもしれないが、美しさの根ざしている生命自体には根を生やしていない。人が美しさを感じることと、「へのへのもへじ」が顔に見えることは似ている。それは思考する機械としての人間が獲得した副産物なのだ。

 

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