非日常とは「日常に非ず」と書く。まさにそのとおり日常の風景は祝祭によって様変わりするのだと最も感じさせてくれる祭りが京都吉田神社の節分祭だった。私は節分祭が大好きだった。

京都の祭りといえば三大祭としての葵祭・祇園祭・時代祭を筆頭にそれこそ無数にあり、下鴨神社の観月祭や北野天満宮例大祭、京都大学11月祭・吉田寮祭・熊野寮祭も忘れがたき祭りに違いはない。祇園祭の宵山などは街の中心部全体が文字通り非日常化するほど大規模な縁日だ。

しかし日常見慣れた小さな空間が迷宮のような奥行きに変貌し、しばしば雪に見舞われながらもほくほくと暖かく、年に一度この日にしか姿を現さないような京都吉田の闇に住むK大院生を含む魑魅魍魎が人混みの影に見え隠れする非日常的祝祭は吉田神社の節分祭をおいて無い。

この祭りは森見登美彦氏の「きつねのはなし」「熱帯」「太陽の塔」など、「夜」の作品群によく現れる。現実である「昼」と精神世界の「夜」の交錯する場所なのだ。実際、怪しいとしか形容しようのない人々がニヤニヤと座敷で日本酒を飲んでいたりするのをよく見る。京都の文化の厚みというか珍味ぶりが見て取れる。

特筆すべきはその空間的奥行きにある。吉田神社はクスノキで有名なK大本部キャンパスと南部キャンパスに挟まれた東一条通を参道としており、その立地から参拝すると受験に落ちるだの単位を落とすだのとの霊験があらたかだとか言われている。一の鳥居から二の鳥居の間には、寂しい砂利広場があるのみである。JR山陽線沿線の歴史も名もない郊外駅前の駐車場にはこのようなものがよくある。とにかく奥行きもなければ飾り気もない場所なのである。二の鳥居をくぐれば多少の坂を登った先に本殿に到達できる。斜面にあって面白いねー、ぐらいの神社なのだ。

それが祭の日には一変する。

砂利広場には延々と縁日の屋台がならび、狭い通路が色とりどりの明かりと匂いによって形作られる。大人の膝ぐらいの背丈しかない子どもが縁日を見上げて光の迷宮のように感じたその不安と幻想的な気持ちを感じることができる。

永遠に続くかに思える縁日を抜けると、二の鳥居が異世界への門かのごとく鈍い光を放ってそびえ立っている。異世界への門に違いはないのだが。奥に続く階段と山はこれから修験の神のおわす山へと続くかのような威厳を漂わせて、静かに暗くひっそりとしている。坂を登っていくと赤ら顔の魑魅魍魎たちが塩焼きの魚や酒を座敷で楽しんでいる。みなが楽しそうだ。一年で最も寒い時期だというのに、この祭を思い出す時にはその風景は暖かさを想起するものばかりである。

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