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物語と人

はじめには、物語があった。

 

ことばは、まだない。

強い人に憧れ、その人のようにありたいと思った。

安らかな日々をゾンビのように望む猿。

ことばは、物語とそうでないものを分けた。ことばというのは、常にそうしてなにかを二つに分けていく。その力で、人でないものと、人、が生まれた。

人として生まれてから、人はどんどんことばに切り刻まれ、最期には無限に小さなものになる。

「無限に小さい」とは、ことばなくしては存在できない、ということだ。

無くなった物語は、ことばのちからがなければとどまることはできない。

くりかえしくりかえしことばで塗り固めたものだけが、大きな物語になる。

そこにはもう切り刻まれた人はなく、深淵を抱え込んだ大伽藍だけが残る。

人は、大伽藍にこだまする物語の重さに胸をうたれ、自らの手で似たものをつくった。

まるで、神様が自分の姿に似せて人間をつくったように、物語の大伽藍に似せて人が作ったものこそが、建築だった。

 

(mediumへの投稿から転載 2016/02/15)

画像処理で見るグッゲンハイム ヘルシンキ

(追記: どの応募案がどのクラスに分類されたかの結果を貼り忘れていました。CSVファイルをダウンロード)

2014年の建築界隈の主要トピックスの一つであるGuggenheim Helsinkiのデザインコンペティションは1715の応募数を集め、2002年の大エジプト博物館コンペの応募数1557を凌ぐ史上最大規模の建築デザインコンペとなったようです。(参考)

建築デザインの経済的求心力がビルバオ・グッゲンハイムで明らかになったことが、人々の関心を建築に集めたことは間違いないでしょう。

応募案はhttp://designguggenheimhelsinki.org/stageonegallery/view/ にアクセスすれば一覧出来ますが、とにかく多すぎる。審査員もうんざりしたことでしょう。僕は傾向を見たいだけなので、適当に画像処理技術を使ってクラスタリングしてみました。

審査員も適当にザッピングして評価してるよ。きっと。建築の歴史はメディアの歴史でどうこうむにゃむにゃ言うつもりはありません。

素材集め

http://designguggenheimhelsinki.org/stageonegallery/view/にアクセスしてctrl+sでhtmlと画像ファイルをダウンロードします。なぜかファイナリストの画像だけダウンロードできなかったので、ファイナリスト6人のエントリーIDごとに”http://a5.designguggenheimhelsinki.org/GH-1128435973-partC1.jpg”にアクセスして画像をダウンロードします。

これで150×150ピクセルの1715個の画像が集まりました。

処理系の準備

解析に使うのはもちろんPython。なぜなら彼もまた特別な存在だからです。

Anacondaをインストールすればだいたい必要なもの(numpyとかpandasとか)はインストールされます。

あとは追加で画像処理ライブラリのpillow(PIL)をインストールしましょう。コマンドプロンプトから以下をタイプ。

easy_install pillow

手法

教師ありの画像認識的な分類(食べ物の画像かどうか)の例はいくつかあったのですが、教師なしで応募案の画像をクラスタリングする、という感じの例はありませんでした。

なので、画像を読み込んで特徴ベクトル化するところまでは教師あり分類の例にしたがって、特徴ベクトル群をk-meansでクラスタリングしてみます。

参考にしたのは以下。

まず、1715個の画像を読み込んで、150×150のRGB値のデータをRandomized PCAで2次元まで減らしてプロットしてみます。

pca_feature

 

あんまりうまいこと分かれている感じはしませんが、まあそんなもんでしょう。

では、今度は20次元にしたデータをscikit-learnのk-meansで8つのクラスタに分けてみます。

クラス0: 216案, ファイナリスト1(GH-76091181)

0

青空の遠景にひっそりとたたずむ画像がほとんどです。あっ、コンペ要旨の割と最初らへんに出てくる画像ですねコレ。堂々とした正攻法が好印象です。

ここに属するファイナリストはGH-76091181。色にこだわりを感じます。

76091181

クラス1: 181案, ファイナリスト0

1

光と影のコントラストを強調したパースが多いです。この建築のここがいいっしょ!?という強い意志とフェティシズムを感じます。しかし周辺との関係はわかりづらいかも。

クラス2: 284案, ファイナリスト1(GH-121371443)

2

 

全体的に薄暗く、描線の多い絵 or 雲の存在感のあるマジックアワー、といったところ。雲の画像の方はコンペ要旨の最後らへんの画像です。

ファイナリストはGH-121371443。美しいです。
121371443

クラス3: 186案, ファイナリスト0

3

クラス2よりもさらに時間は進み、夜との境目~夜。個人的にはこれぐらいの時刻の写真が好きです。

クラス4: 250案, ファイナリスト3(GH-04380895, GH-1128435973, GH-5631681770)

4

 

全体的に低めな彩度や霞のかかった画像。エッジの効いた彫刻のような存在感ではなく、曖昧な視界にヌッと現れる不気味な存在感、という感じ。

ファイナリストはGH-04380895, GH-1128435973, GH-5631681770と3つも属しています。

04380895 5631681770 1128435973

 

 

 

 

 

カッチリした形で勝負するのでないところが、ヘルシンキという文脈に合うのかもしれません。

クラス5: 271案, ファイナリスト0

5

 

さらに白い。白いが昼間の画像が多い感じです。ヘルシンキの天気を考慮したもののその文脈での美しさを見つけられなかった、という感じでしょうか。

クラス6: 210案, ファイナリスト1(GH-5059206475)

6

白すぎだろ!空が無いものだったり背景が白の図面などが属します。

ファイナリストはGH-5059206475

5059206475

 

うーん白い。白いっていうかなんだこれは。

クラス7: 117案, ファイナリスト0

7

上下余白のある画像です。そういうの分類しにくいからマジ勘弁です。

ここまででクラス4が強いことが分かりました。彩度は低めで、かと言って低すぎず、明度も高すぎず、そしてなにより光っていること。超大事なようです。

ではクラス4をさらに3つぐらいに分割してみましょう。

クラス4-0: 76案, ファイナリスト1(GH-5631681770)

4-0

クラス4-1: 59案, ファイナリスト0

4-1

クラス4-2: 115案, ファイナリスト2(GH-04380895, GH-1128435973)

4-2

やはり霧か…

僕の持論として、美しい画像 = 一つに統一された傾向を持っている画像という法則があるのですが、霧の画像というのは、全体に一つのフィルタをかけるようなものなので統一感が出しやすいのですね。他に統一感のある画像としては、夕焼け(色相)、落ち葉(ベクトル)、木漏れ日(色相、コントラスト)などがありますね。

とにかくここで結論として言えることは、ヘルシンキのコンペでは

  • 霧を使うこと
  • 建築を光らせること
  • 暗すぎてもだめ

という部分を守ると当選確率が上がるかも、という結果論です。これで誰か僕を建築批評シンポジウムか何かに呼んでくれるでしょう(ワクワク)。

一応最後にコードを載せておきます。


#-*- encoding: utf-8 -*-

from PIL import Image
import numpy as np
import os
import pandas as pd
import pylab as plt
import shutil
from sklearn.decomposition import RandomizedPCA
from sklearn.cluster import KMeans


STANDARD_SIZE = (150, 150)


def img_to_matrix(filename, verbose=False):
    """
    load img file as a np.ndarray
    """

    img = Image.open(filename)
    if verbose:
        print('changing size from %s to %s' % (str(img.size), str(STANDARD_SIZE)))
    img = img.resize(STANDARD_SIZE)
    imgArray = np.asarray(img)

    return imgArray

def flatten_image(img):
    """
    takes in an (m, n) numpy array and flattens it
    into an array of shape (1, m * n)
    """

    s = img.shape[0] * img.shape[1] * img.shape[2]
    img_wide = img.reshape(1, s)
    return img_wide[0]

def plot_in_2_dimensions(data):
    """
    plot in 2 dimensions. (Reshape by RandomizedPCA)
    """

    pca = RandomizedPCA(n_components=2)
    X = pca.fit_transform(data)

    df = pd.DataFrame({"x": X[:, 0], "y": X[:, 1], "name": images})
    colors = ['red', 'yellow']
    plt.scatter(df['x'], df['y'], c=colors[0], label=images)

    # labels
    # for image, x, y in zip(images, X[:,0], X[:,1]):
    #     plt.annotate(image, xy = (x, y), xytext = (-20, 20),
    #     textcoords = 'offset points', ha = 'right', va = 'bottom',
    #     bbox = dict(boxstyle = 'round,pad=0.5', fc = 'black', alpha = 0.5))

    plt.savefig('pca_feature.png')
    plt.show()

def main():
    img_dir = 'images/'
    images = [img_dir + f for f in os.listdir(img_dir)]

    data = []
    for image in images:
        img = img_to_matrix(image)
        img = flatten_image(img)
        data.append(img)

    data = np.array(data)

    # plot_in_2_dimensions(data)

    # k-means clustering
    pca = RandomizedPCA(n_components=20)
    X = pca.fit_transform(data)
    km = KMeans(n_clusters=3)
    labels = km.fit_predict(X)


    for i, image in enumerate(images):
        print(image[7:] + "," + str(labels[i]))
        shutil.copyfile(image, "clustered/" + str(labels[i]) + image[6:])



if __name__ == '__main__':
    main()

 

コンテクストが必要なもの、要らないもの

前ブログの記事で、あらゆる表現は次の3つで捉えられると書いた。

  • クラシック : 様式。一般にイメージのクリシェとして利用可能であるもの。
  • アヴァンギャルド : 類を見ないもの。
  • バズ : マスメディアの登場以降。クラシックとはなりえないものの一時的なスタイルとして利用可能。

コンテクストとは、クラシック表現において読み込まれることになる、過去の表現の抽象化されたものことをここではいう。

よく、コンテクストはを押さえなければならないと言われるが、それって本当だろうか。専門家にとって必要なだけじゃないのか。科学、美術、音楽、建築について考えてみる。

科学

科学は査読というシステムがあるため、コンテクストを押さえなければ意味が無い(ということになっている)。ページランクのように、一般の人の支持を集めることになって引用数が増えるということはあっても、一般の人の支持を集めたからといってそれが定式化されないまま引用されるということは(意味が)ない。

美術

村上隆は『芸術起業論』の中で以下のように言っている。

美術の世界の価値は、「その作品から、歴史が展開するかどうか」で決まる。

根強い慣習や因習を振り切れる衝撃や発見や現実味がなくては革命にならない。

多くの人に受け入れられなければなしとげられない革命を促してゆくものこそが、真の芸術作品である。

歴史に残るのは、革命を起こした作品だけである。

つまり美術は、価値の転換を成し遂げることになったものとして後から評価されるものだということだ。

ここで重要なのは、美術表現の転換ではなく、価値の転換の象徴となりうるかということだ。その意味で、将来の専門家から、「この作品は歴史と当時と現代をつなぐ象徴である」というお墨付きをもらうために、コンテクストは押さえなければならないことになる。

しかし、その前に、その作品はなんらかの形で美術界に存在しなければならない。これには、ゴッホやヘンリー・ダーガーのように死後に発見されるようなこともあるだろうが、生前に美術館に収蔵してもらう・またはそれ自体でブームを起こすというのが現実的な戦略となろう。

幸いなことに、現代芸術には「概念の破壊」という評価基準が存在するので、いって見れば何でもありで、いかにその戦略を自覚的に進めるかということも文脈となりうる。

死後にしか評価されない価値を、生前にひきよせるために金銭の力を使ったのが、ジェフ・クーンズをはじめ、80年代以降にデビューしたアーティスト。

かつての権力者、宗教的権威、お金持ちが自分たちのために芸術家に作品を作らせるという単純な時代から、芸術家が芸術家のために作った作品を、まさにそのことを理由にお金持ちが自分たちのために買うというややこしい時代に移行した。そのため、作品としての価値と価格が大きくくずれた。

後者は『芸術闘争論』からの引用である。

芸術が「お金」の概念にも食指を伸ばしたことで、消費者が取り込まれた。消費者は、投機目的、税金逃れ、あるいは単に「かわいい」とか「かっこいい」とかでそれを買う。

サブプライム危機以前の現代芸術がそのようなものであった以上、それにはコンテクストのみならず一般の人が寄与することになり、キャッチーな価値が必要となった。と、村上隆が自身をコンテクストに位置づけるための物語はそうなっている。

音楽

あまり知らないのだが、音楽はオペラなど物語と一体となって感情を操作するものから、音楽それ自体を研究するようになり、またそうしたコンテクストとは別に、以前からある「一体感や物語性を演出する音楽」が一般の人々に受け容れられた(ポピュラー音楽)。現在は「できるだけ多くの人に感動を届けるポピュラー音楽」が人々の教養や選択肢の増加による多様化のせいで衰退し、各音楽領域ではお互いを評価しあう「駄サイクル」が生まれがちだ、というのは『ネムルバカ』で描かれている。

「できるだけ多くの人に感動を届けるポピュラー音楽」という文脈ではアイドルという「場」の付随物(演出道具)として使われており、コンテクストはほぼ関係ない。

各細分化領域では、多くの一般人を消費者として呼び込めないので、必然的に評価は同人によって行われる。そのため、先鋭化したコンテクストが生まれる。

建築

建築は権力だとか神性だとか、何らかの効果を求めて作られてきた。近代以前にはそれがだいたい神性(≒権力)であった(というか現在まで残るようなもので同一のコンテクストであるのはそれぐらい)ので、ほぼ同一の様式が確立されていた。しかし個人が確立し、経済が社会のルールを決定し、多様な価値を認めるという段階ごとに、居住性や商品価値が求められる効果として大きくなってきた。そして居住性や商品価値を以前からのコンテクスト(神性)と接続することはできていない。

つまりそもそも建築としての批評性はあいまいで、ひとことで言うと形状や体験ということになる。学問全体としては多様な研究がなされているが、船頭の多さゆえに今海にいるのか山にいるのかも分からない。しかし購入者がいなければ建たない現状が変わらなければ(デザインの方法論という拡張も行われているが)、コンテクストは不要であろう。

建築批評空間を可視化してみた

最近Pythonにはまっています。

ついでに機械学習の勉強にもはまっています。

こりゃあ建築批評空間を可視化するしかあるまい。

公開されている建築批評といえば「『10+1』データベース」ですね。

なんとなく見た感じ、アドレスは

スクリーンショット_13_02_23_19_26

こんな感じになってるので、適当に番号を増やしてったところ、どうやら1549まであるみたい。

というわけで、全ページを次のシェルスクリプトで取得します

#
var1=http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/
var2=.html

for ((i=1;i<1550;i++))
do wget -O $i$var2 $var1$i/
done;

この1549の中にも歯抜けになってる番号が100ありました。

それで、記事によっては

スクリーンショット_13_02_23_19_06

こんな具合に公開されてないものもあります。全1449記事のうち、公開数:721、未公開数:728 でした。約半数が公開されているようです。

さて、いろいろやってみたいことはあるのですが、まずは簡単に記事同士の関係をみてみようと考えました。

記事を見てみると、各記事の右側には著者名が並び、その記事の掲載号情報があり、以降は文中で言及されるキーワードが解説されていることが分かります。

スクリーンショット_13_02_23_19_10-2

 

この著者としての登場回数とか、誰の記事で誰がよく言及されるとかを調べると面白そうです。というわけで、htmlソースから該当部分をPythonでBeautifulSoupを使って抜き出し、pymongoを使ってmongodbにブッ込みました。

なんでmongodbかというと、あとでheroku上でなんか作ろうかなとか思ってるからです。今回はやりませんが。

スクリーンショット_13_02_23_19_22

 

当該情報はannotationクラスのdiv内にあるので、

# -*- coding: utf-8 -*-
import sys
import codecs
import re
import pymongo
from BeautifulSoup import BeautifulSoup

sys.stdin  = codecs.getreader('utf-8')(sys.stdin)
sys.stdout = codecs.getwriter('utf-8')(sys.stdout)

R_END_AUTHOR = re.compile(r'『10+1』')

def getNavigableStrings(soup):
  if isinstance(soup, BeautifulSoup.NavigableString):
    if type(soup) not in (BeautifulSoup.Comment,
      BeautifulSoup.Declaration) and soup.strip():
      yield soup
  elif soup.name not in ('script', 'style'):
    for c in soup.contents:
      for g in getNavigableStrings(c):
        yield g

def parseAuthorAndKeyword(num, col):
    filename = 'html/'+str(num)+'.html'
    f = open(filename, 'r')
    data1 = f.read()
    f.close()
    soup = BeautifulSoup(data1)
    enc = soup.originalEncoding
    # print "Encoding : %s" % enc
    # print unicode(soup.prettify(), enc)

    author  = []
    keyword = []
    authorFlag = True
    # author, keyword
    for table in soup('div', {'class':'annotation'}):
        # get content name
        name = table.findAll('h5')[0].next.next.string.encode('utf-8')
        if authorFlag:
            if R_END_AUTHOR.match(name):
                authorFlag = False
                continue
            splitted = name.split('(')
            author.append(splitted[0])
        else:
            splitted = name.split('(')
            keyword.append(splitted[0])

    # article
    # locked
    articleFlag = -1
    # limited
    for article in soup('div', {'class':'articleLimitedUnitBox'}):
        articleFlag = 0
    # published
    for article in soup('div', {'class':'articleUnitBox'}):
        articleFlag = 1

    doc = { 'author': author, 'keyword': keyword, \
            'number': num, 'published': articleFlag }
    col.insert(doc)

def main():
    conn = pymongo.Connection()
    db = conn['10+1']
    col = db['authors']

    for i in range(1, 1550):
        print i
        parseAuthorAndKeyword(i, col)

    conn.disconnect()

if __name__ == '__main__':
    main()

こんな具合で抜き出します。

関数parseAuthorAndKeywordで抜き出しを行なっています。BeautifulSoupで当該タグまで下り、table.findAll(‘h5’)[0].next.next.string.encode(‘utf-8’)で抜き出しています。名前にリンクが付いている人と付いてない人とがいたので、どっちでもいけるようちょっと汚くなっています。

それと、だいたい名前は「磯崎新(イソザキ・アラタ)」みたいな形になってて、カッコの中はいらないので、splitted = name.split(‘(’)でカッコの始まりで分割し、splitted[0]で前半部分だけ保存してます。

pymongoについてはググれば分かります。

次は、著者として登場するすべての人物について、その人の記事中であるキーワードが右に解説されていたら著者→キーワードとなる辺を持つようなグラフ(隣接辺リスト)をつくります。辺の重みはその記事数です。

さて、いよいよ可視化です。可視化にはcytoscapeを使おうと思ってやってみたんですが、web上で見るのに不便だなと思ったので、もうちょっとイケてるGephiを使って、web上での閲覧はgexf-jsという素晴らしいライブラリを使わせてもらうことにしました。

cytoscapeで読み込む隣接辺リストはsource, target, weightを一行とするcsvファイルでいいのですが(この辺は井庭崇先生のブログがわかりやすい)、Gephiの場合はsource, targetを一行とするcsvファイルです。

重みについてはすべての辺の重みを1として、同じsource, targetの辺の数がその辺の重みとなります。

# -*- coding: utf-8 -*-
import sys
import codecs
import pymongo

sys.stdin  = codecs.getreader('utf-8')(sys.stdin)
sys.stdout = codecs.getwriter('utf-8')(sys.stdout)

convert_tuples = [
 (u'\u00a6',u'\u007c'),#broken bar=>vertical bar
 (u'\u2014',u'\u2015'),#horizontal bar=>em dash
 (u'\u2225',u'\u2016'),#parallel to=>double vertical line
 (u'\uff0d',u'\u2212'),#minus sign=>fullwidth hyphen minus
 (u'\uff5e',u'\u301c'),#fullwidth tilde=>wave dash
 (u'\uffe0',u'\u00a2'),#fullwidth cent sign=>cent sign
 (u'\uffe1',u'\u00a3'),#fullwidth pound sign=>pound sign
 (u'\uffe2',u'\u00ac'),#fullwidth not sign=>not sign
]

def unsafe2safe(string):
    for unsafe, safe in convert_tuples:
        string = string.replace(unsafe, safe)
    return string

def frequencyOfItemsInKey(col, key):
    """
    return dic of all items and its frequency appeared in key.
    {key1:val1, key2:val2, ...}
    """
    dic = {}
    # for all documents
    for doc in col.find():
        # for each key
        for i in  range(len(doc[key])):
            buff = {doc[key][i]: \
                    col.find({key: doc[key][i]}).count()};
            dic.update(buff)

    return dic

def frequencyOfSecondInFirst(col, firstKey, first, secondKey):
    """
    return frequency of keyword in author's text.
    {first: {second1:val1, second2:val1, ...}}
    """
    buff = {}
    # for all documents of which firstKey is first
    for doc in col.find({firstKey:first}):
        # for each secondKey
        for i in  range(len(doc[secondKey])):
            buff2 = {doc[secondKey][i]: \
                     col.find({firstKey: first, \
                               secondKey: doc[secondKey][i]}).count()
                    }
            buff.update(buff2)
    dic = {first: buff}

    return dic

def writeDicRankToTSV(dic, filename):
    """write dic to TSV as a ranking of the value."""
    f = codecs.open(filename, 'w', 'utf-8')
    for key, val in sorted(dic.items(), key=lambda x:x[1], reverse=True):
        if key == '\n': continue
        buff = str(key)+'\t'+str(val)+'\n'
        f.write(buff)
    f.close()

def makeASetOfKey(col, key):
    """make a key set."""
    keys = []
    for doc in col.find():
        for i in  range(len(doc[key])):
            keys.append(doc[key][i])
    keys = set(keys)
    return keys

def writeNetworkAsEdgeList(network, filename):
    """for cytoscape."""
    f = codecs.open(filename, 'w', 'shift-jis')
    for person in network.keys():
        for keyword in network[person].keys():
            buff = person+','+ \
                   keyword+','+str(network[person][keyword])+'\n'
            buff = unsafe2safe(buff)
            f.write(buff)
    f.close()

def writeNetworkAsEdgeListGephi(network, filename):
    """for gephi."""
    f = codecs.open(filename, 'w', 'utf-8')
    for person in network.keys():
        for keyword in network[person].keys():
            # repeat for edge weight
            for i in range(network[person][keyword]):
                buff = person+','+keyword+'\n'
                f.write(buff)
    f.close()

def main():
    # connect with mongodb
    conn = pymongo.Connection()
    db = conn['10+1']
    col = db['authors']

    # make ranking of authors and keywords
    dic = frequencyOfItemsInKey(col, 'author')
    writeDicRankToTSV(dic, 'authorRank.txt')
    dic = frequencyOfItemsInKey(col, 'keyword')
    writeDicRankToTSV(dic, 'keywordRank.txt')

    # make a reference network
    authors = makeASetOfKey(col, 'author')
    dic = {}
    # for all authors
    for person in authors:
        buff = frequencyOfSecondInFirst(col, 'author', person, 'keyword')
        dic.update(buff)
    writeNetworkAsEdgeList(dic, 'referenceNetwork.csv')
    writeNetworkAsEdgeListGephi(dic, 'referenceNetworkForGephi.csv')

    # basic information
    numPages = col.count()
    numLocked = col.find({'published': -1}).count()
    print u'全記事数', numPages - numLocked
    print u'未公開記事数', col.find({'published': 0}).count()
    print u'公開済み記事数', col.find({'published': 1}).count()

    # disconnect with mongodb
    conn.disconnect()

if __name__ == '__main__':
    main()

ちなみにcytoscapeはshift-jisでないといけないので、この記事のやり方でutf-8から変換しています。Gephiはutf-8でいける。

さて、まずはそのまんま可視化した場合(画像クリックで開きます)。

スクリーンショット_13_02_23_18_54

 

  • 言及されてる回数が多いほどノードが大きく、
  • 言及数が多い人(多くのキーワードに言及している人)ほど赤く、
  • 文字の大きさは両方を合わせた数が多いほど大きくなっています

あとで言いますが言及数は記事数が多いほど多いですね当然。

では次は次数が1(言及、被言及合わせて1回だけ)のノードを排除し、その上で辺の重みが2以下の辺を排除したグラフです。いわばテンプラスワン批評空間における特権階級たちです。

スクリーンショット_13_02_23_18_53

 

では記事投稿数ランキング上位21人(同率がいるため)です。

五十嵐太郎 72
田中純 55
日埜直彦 47
八束はじめ 38
塚本由晴 34
上野俊哉 32
中谷礼仁 29
篠儀直子 29
内田隆三 29
今村創平 27
吉村靖孝 26
南泰裕 23
石川初 19
磯崎新 19
椹木野衣 18
多木浩二 17
大島哲蔵 16
今井公太郎 16
毛利嘉孝 15
西沢大良 14
貝島桃代 14

椹木野衣さん多いんですね。意外でした。それでは被言及ランキング上位21人です。

ル・コルビュジエ 114
ポストモダン 92
磯崎新 80
レム・コールハース 64
伊東豊雄 54
丹下健三 50
INAX出版 48
ヴァルター・ベンヤミン 47
ルネサンス 47
パサージュ 35
安藤忠雄 35
藤森照信 35
バウハウス 34
原広司 33
メタボリズム 32
現代住宅研究 31
アルゴリズム 30
アーキグラム 29
ミース・ファン・デル・ローエ 28
コーリン・ロウ 28
篠原一男 28

コルビュジェ先生はさすがですね。テンプラスワンがポストモダンの建築批評誌であることがよく分かります。INAX出版はやりよるなという感じですかね。

これからはもうちょっと面白い特徴を見つけてみようと思います。

あと本文抽出もできるのでMeCabを使ってなんかしてみようと思います。まずは多分ナイーブベイズを試すと思われます。

エレベータボタン問題に潜むUXの構造的問題

  1. http://fladdict.net/blog/2013/01/cognitive-buttons-for-elevator.html
  2. http://d.hatena.ne.jp/wa-ren/20130129/p1

を読んで、ボタンのデザインとしては1が分かりやすくてとても良いと思うのですが、2で指摘されている部分、

もそも根本的な話として、ひらくボタンはどういう時に使うのか? それは閉まりかけのドアに無理に入り込もうとする人を助けてあげるときや、先に入った人が後からくる人のために開けて待っているというシチュエーション。でもそれって、エレベーター利用者全体のUXを悪化させていると思うわけですよ。そもそも駆け込み乗車(乗籠?)は危険だからやるべきじゃぁない。また、Aさんが先に入って、歩みの遅いBさんのために開けたまま状態を延長することは他の階で待つユーザのUXを悪化させる。ひらくボタンが存在することによって悪化するUXはもっとある。駆け込み乗車しようとするCさんを先に乗った(こちらも急いでいる)Aさん見限るケースもそうだ。Cさんとしては『あ、あいつひらくボタンを押さずに俺を見捨てやがったな』と感じるし、Aさんとしても『もしAさんが間に合ったら、ここでひらくボタンを押さなかった私を恨むだろう。でも私だって急いでいるからあなたを待ちたくはないのだ….』と心おだやかではなくなるはずだ。

これはUX的視点としてとても重要です。で、ここで指摘しているにもかかわらず、ひらくボタンを無くしてとじるボタンを残すと、「目の前で閉めやがった」という状況が起こることには変わりないわけです。僕はどちらであろうと気にしませんが。

スクリーンショット_13_01_29_13_03

叫ぶ云々はどうでもいいですが、対策としては、「エレベーター内部から近づいてくる人が見えないようにする」という方法が考えられます。

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レッシグ先生の「アーキテクチャ」的解決です。オフィスビルなんかではエントランスを煩雑にしないためにエレベーターホールが隠されてますが、そんな感じです。

つまり言いたいことはですね、UXを考えるならアーキテクチャも必要だよねってことです。そして、ボタンのデザイン(大きさ、色やら)は問題の発生確率を下げるように考えるわけですが、完璧なものはなくて2のように色々と副作用が生まれてくるわけです。

現代の建築士は通路の設計はしますが、エレベータを特注でつくるとなると高コストなので普通はしないでしょう。エレベータ―登場のほんの初期には、建築士とも相談してやっていたでしょう。今よりももっと高コストだったでしょうけど。

要するに普通の設計案件において建築士がすべてのUIを操作することは不可能で、既成品の組合せで大体はどうにかすることになります。そうした時に、せめてエレベーター会社はUI設計の理念というか目的を明らかにするべきでしょう。

ひらくボタンをなくすのもとじるボタンをなくすのもそれぞれ言い点悪い点は状況によって存在するので、都会の駅ビルとか人が多すぎて匿名性が高くかつ回転率を上げたい所ではとじるボタンだけのを用意するとか、上で顔を合わすことになる小さい会議場のビルとかはひらくボタンは残すとかいう「想定する状況と目的」をあらゆるプロダクトについて考えるべきだと思うんです。組み合わせやすいようにパタン・ランゲージとか使えよ!ってことです。

物語をめざして:これからの建築

学校の課題で「建築のミッション」を考えろってのがあって、年末から正月に読んだ本とかから得た思考をまとめるのにちょうどよかったので、思考断面として残しとく。

人が言ってたことを割と無批判に組み合わせた感じです。流れとしては、

  • なんか言うと「あいつは〇〇をわかってない」ってどっかから言われちゃう(島宇宙)

  • 全体的なこと語るのは無理:
    1. 今できることをしよう、問題を解決していこう、俺達の闘いはこれからだ!(部分的社会工学)
    2. 〇〇って△△にも使えるんじゃね?→共通の構造の探索(概念の拡張)

  • 1.の打ち切りエンドは現実的なように思えるが、未来の可能性という曖昧さに依存している。そんでたいがい僕たちはいつも未来では素晴らしい人類であるが、いつかの未来である今日の僕たちは素晴らしい人類ではない
  • 2.で行こう→建築の場合「建築に何が可能か」とか「時を超えた創造の道」とか「アーキテクチャ」とか

  • 物語性は階層とか参加者の差異を気にしない:ディズニーファンはみんなディズニーファン、オタクはオタクっていうくくり
  • でもコモディティ化すると典型的な「オタク」を演じるだけの傾向が強くなる:物語には離散も必要とかいろいろ工夫がいるよね

  • 現代の小さな物語群とか、コミュニティみたいなのの設計理論・評価理論を建築設計理論・建築論でやりましょうよ

みたいな感じです。「建築の概念は拡大したが、歴史的な設計概念との接続をちゃんとしないと」って思想地図vol.3の冒頭の対談で磯崎新さんが言ってて、藤村龍至さんがやってんのは拡張した「アーキテクチャ」の視点で近代の開発を見ていって現代との接続をはかる、あと「アーキテクチャ」を設計する実践みたいなことかなと理解しました。

僕はこれに物語性がやっぱ必要だなと思う。UXってバズってるけど、Apple製品でもディズニーファンでも、そこに参加する意義があるから満足を得られるという側面が大きいわけで、製品単体では語れないと思うし、その理論は建築家が担わんといけんだろう。という具合です。ゼロ年代っぽいふわふわ感はしゃーない。では以下本文。

 

概要

「人と同じ物を求めて集団参加の自己承認欲求を満たす」ことが批評的に捉えられ、「人と違うものを求めて同じ嗜好の人との小集団参加を成立させるために他の小集団を批評する」ことが一般的になったように思われる。これにはインターネット上のコミュニケーション手段の発展、つまり現実を俯瞰するメタレイヤーを私たちが獲得したことに大きく起因する。そのような状況の中で、全体的な傾向:パラダイムを考察するにしても、砂が手からこぼれ落ちるように部分の欠損が生じてしまう。そして、それが非難されるという状況にある。もはや自分の野において問題を解決する「部分的社会工学」に逃げるしかないのか。

逃走の手段として建築という思考の枠を広げて、多くの人の能力を向上させる大枠の設計理論・ツールの整備を行うという方法が考えられるが、それは必然的にさらなる能力格差をもたらす。そこにおいて人は幸せなのか。ブラック・ボックスとしての「安全」なシステムで「揺り籠から墓場まで」暮らすことに楽しみは見出だせるだろうが、国家としての競争力を持ちえなければ国内での絶対的な豊かさは成立しない。これらを導くものとして、建築はアーキテクチャのみならず、物語性を設計する理論をより深く取り扱うべきだと考える。

世界との調停

古来より、自らの動物的衝動、他人、世界との調停は哲学的探究の目標であった。厳しい戒律を伴う宗教は動物的衝動を理性によって制御する方策を模索し、同時に集団を作ることで社会参加をさせるというシステムを可能にした。[1]では、集団において期待される個人であることが必要であった初期キリスト教が、罪の告解の制度を契機として、個人の責任における社会を成立させたと説明している。しかし、キリスト教社会において、世界との調停は依然として問題であった。キリスト教では自然は神によって創られ、神の似姿たる人間にその支配を委ねたということになっており、その理性的な自然と、現実には恐ろしく牙をむく自然はともに図である人間に対して地であると捉えられてきた。

理性(思考/デジタル/記号)と世界(現実/アナログ)をつなぐこと。それはClaude Elwood ShannonとJohn von Neumannの業績による計算機の登場によって一歩実現に近づいたといえる。Shannonの情報理論においては、デジタルによるアナログの代替には無限の計算量が必要とされるが、われわれが世界を認知すること自体が記号と電気信号によっているのだという構造主義的解釈から見ると、私たちの認知上の世界と思考上の世界との接続が可能になるように思われる。

「島宇宙化する」現状

データの蓄積が可能となった今、時が経つほどデータは正確な予測を可能にし、それを扱う能力が必須のものとなることは明白である。Douglas Engelbartの提唱したGraphical User Interface(GUI)の発展によって情報理論や計算機の原理を理解しないままでも計算機を利用できるようになり、例えば最近ではMicrosoft OfficeやAdobe Creative Suiteなどのソフトウェアが研究、文学、絵画、映像表現を革新してきた。

データログの増大とともに、そこから有用な情報を抽出するデータマイニングが発展してきた。しかし多くのマイニング手法は増大するデータの次元性に対して現実的な時間で処理を行えない(「次元の呪い」と呼ばれる)ために、人間の判断による”preprocess”を必要とする。これにはデータマイニングの知識に加え、データのドメイン(どの分野のどのようなデータか)に関する知識も必要になる。最近、deep architectureと呼ばれる多層ニューラルネットによって、preprocess無しの画像処理が研究されているが、一般に使いやすい形になるにはもう少し時間がかかると思われる。[2]

しかし将来において、データの自動処理においてもブラック・ボックス的なソフトウェアの登場は間違いない。そして万人に与えられた能力に、相対的優位性は無い。社会に影響をおよぼすという点においては相対的優位性こそが不可欠である。つまり、ある処理をブラック・ボックス化することは、人が獲得したそれと同じ能力の相対的優位性を無くす側面がある。

このように以前はいろんな人に委託していた様々な処理がPCが一括請負することが可能となり、処理に係る判断を人間が行うことになってきた。そしてその選択はその人自身を規定していく。例えば携帯電話ひとつとっても待ち受け画面からGUIテーマ、インストールするアプリケーションなど、常に「自分を表現する事となるインターフェースの選択」を迫られている。そのような社会において嗜好の多様性が大きくなるのは当然であり、その社会においてそもそもパラダイムを語ることが不可能なのではないか、つまり建築においてマニフェストの時代は終わったのではないかという見方も至極当然である。

これは[3]の冒頭の対談でも浅田彰が指摘している。要約すると、

 

  • 「メディアがメッセージだ(つまり中身はなんでもいい)」と言ったマクルーハンは電子メディアによってグローバル・ヴィレッジができると言ったが、実際はローカル・ヴィレッジズにしかならなかった。小さな村が乱立して、各々の内部では村祭的に盛り上がる一方、それらのあいだではディスコミュニケーション状態にある。
  • ヘーゲル・マルクス的に社会の全体性を認識し上から革命的に変えていくという試みがスターリン・マオ的な悪夢に帰結した以上、ハイエク・ポパー的な観点(自生的な秩序として積み重なってきた社会を尊重しつつ、「部分的社会工学」で問題のある部分にパッチを当てていく程度にしよう)に立つほかない。
  • ヘーゲル・マルクス主義の後、それによる革命が失敗したからこそ哲学がまだ命脈を保っているんだというアドルノの「否定弁証法」(不可能な全体性をめぐる終わりなき思索)と、ポパーの「部分的社会工学」が、思考の空間を張る軸だった。

 

これは浅田が『構造と力』を出版する際に、70年代にいくつも生まれた「部分的社会工学」としての構造主義を、対談の主題である「アーキテクチャ」を語る際の問題設定と比較し、いっこうに変化がないことを指摘した文脈である。これに対して司会の東浩紀が「グローバル・ヴィレッジとローカル・ヴィレッジズは結構違う」とし、島宇宙間のディスコミュニケーションを越えてパラダイムを語ることの問題へと議論は移る。磯崎新はこの対談で「アーキテクチャの概念は拡張されてきているが、その歴史との正しい接続をするべきだ」と主張している。

部分的社会工学と概念の拡張は共に全体性を語ることからの逃避が可能である。部分的社会工学は、[3]の浅田の説明の通りだとすると、「自らのよく知る領野での問題解決をはかる」ことであり、概念の拡張は、「個別の事例についての対処は考慮せず、より本質的な部分を共有する他分野との統一理論を目指す」ことだとここでは考えるとする。建築での概念の拡張の端緒と考えられる原広司の『建築に何が可能か』の出版が1967年、Christopher Alexander『オレゴン大学の実験』の出版が1975年だったことを考えると、部分的社会工学も概念の拡張も、ともに70年代の特徴であったと考えられる。以降では、島宇宙間のディスコミュニケーションを越える可能性があるものとして概念の拡張のみを扱う。

概念の拡張の向かう先

島宇宙化した現状において、建築家が建築を指向する限りにおいて、もはや生き残るすべはない。それはCDからデジタルに音楽産業が移行しているなか、レコードの針の設計理論を語り続けるようなものである。幸い、建築という枠組みは従事者の思考ではなく、成果物によって与えられるため、概念の拡張によって建築学が死ぬことはない。

建築における概念の拡張のひとつはローレンス・レッシグの「アーキテクチャ」である。レッシグは人間の行動を制約するものとして、法律、規範、市場、アーキテクチャの4つを挙げ、それぞれ「取締りと刑罰によって行動を制約する(法律)」、「道徳を社会の全員に教え込んで行動を制約する(規範)」、「課税や補助金などで価格を上下させて行動を誘導する(市場)」、「社会の設計を変えることで社会環境の物理的・生物的・社会的条件を操作し人間の行動を誘導する(アーキテクチャ)」とした。[4]これにより、設計論は「アーキテクチャ」を設計する理論、建築論は「アーキテクチャ」を評価する理論となる。

実際、ソフトウェア開発の場面では建築の比喩が用いられたり[5]、デザイン・パターンなど設計理論を応用したスキームが使われるなどしている。[6]また近年では機能的に匹敵する製品の差異化のため、プロダクト開発の現場でUser Experience(UX)が盛んに研究されている。これらは、利用者としての人間と製品を一つの生態系として扱うものであり、そのため従来から人間の体験を重視してきた建築論の蓄積が応用されている。

人間とモノを含めた環境全てを人間として扱うという考え方は[7]でも示されている。これは世界との調停の端緒となる。世界の中での自分の定位を可能にすることは今まで宗教・社会の役割であった。[8]では、農村では時間的な祭りとして行われていた「人間が今までと違う存在に化けることを可能にする仕掛け」を空間化したものが都市であるとしているが、そうした環境との生態系を含めた個人の定位を扱うという意味で、設計理論は磯崎新の「撤退宣言」以来はじめて都市へと再帰する

しかし、もはや「設計」概念は建築に携わる人だけのモノではない。構造主義を応用した記号操作はソフトウェア開発と相性が良く、より厳密な理論化、手法化が行われている。またソフトウェア開発の技能なくしてはそれらの高度な運用はできない。建築家が今の建築を指向し続ける限り、都市に進出するのはプロダクト開発者であり、そして建築もまた然りであろう。それを支える証拠として、今後10年以内にGPSの精度向上と、それに伴うAR技術の隆盛が挙げられる。[9][10]私たちは、常に数十年先を見据えて動かなければならない。世界初のPC(MITS Altair8800)が発売されたのは、たったの38年前なのだ。

 物語性の設計理論

概念の拡張後の設計理論、建築論が十分に発展したとして、今の段階で不足だと考えられるのは物語性の理論である。人間同士は仲間を作ることで発展してきたが、それは同時に「仲間でない」人間をつくることでもある。[8]ではそれが都市の「悪場所」、または「中心と周縁」として語られる。つまり人間が日々暮らすということは安全性をアーキテクチャによって担保することが目標なのではなく、幸福を追求しているのであり、それは「自分に比べて不幸」な人間の認識を同時に生みだすことでもある。かつてそれを担っていたのは宗教だが、現代の日本ではそれが無いことが問題だとの指摘は[11][12]、今ではアニメやマンガなどのオタク文化がその大きな役割を担っているというのは[13]で主張されており、オタク系文化は欧米で問題となる「ジェンダー」や「階級」の差異を中和化する方向に働くと思われるということも[3]の最後のレポートで指摘されている。

それらは「ディズニーランド化」[14]とは異なる。「ディズニーランド」は、いわば島宇宙内での祭りであり、本来の祭りで起こるはずの階層の反転が起こらない、または演じられた階層の反転しか生じない。これは、場所によって「化ける」都市人類によって行われる現代の祭りである。ディズニーランドが生まれた当初はジェンダーや階層の差異なくディズニーを愛する人々が参加したであろうが、今となってはもはやディズニー好き同士がそれを確認しあう場にすぎない。コモディティ化したオタク文化においてもその傾向が近年強いように私には思われる。つまり、重要なのは「ディズニーランド化」ではなく、いかに島宇宙を越えて人々に仲間意識を芽生えさせ、簡単に離れることができるかである。そのための理論を、物語性の理論と呼び、物語性の理論を念頭に置いたプロジェクト・マネジメントを物語駆動型開発と呼ぶ。

好きなときに参加し、仲間意識を享受し、離脱するというのはメディア論で言うところの選択同期と呼ばれる。[15]ニコニコ動画はこの選択同期の例として挙げられる。つまり、動画という決まった時間軸の体験を、いつでも好きなときに他の人の過去の体験と共有できるのである。メタレイヤーとしてのインターネットと、場所化された都市の祭りとの組合せは、まさにこの選択同期といえよう。「食べログ」で話題の店を探し、好きなときに訪れ、体験でき、レビューを確認する。インターネットによって、本来祭りとして場所化されなかった場所でも祭りが起きる。インターネット上でのバズを日本では「祭り」と呼ぶのもうなずける。物語性の設計理論には、このように物語を生み出す構造の設計理論も含まれるべきである。

物語駆動型開発によって目指すのはイノベーションである。物語が参加者の差異を中和し、創造的コラボレーション、UXのビジョンをもたらす。直接的なソリューションの提供のみならず、国際的な競争力を獲得することで国内での絶対的な豊かさを向上させることを目指すべきである。建築は、概念の拡張が避けられない以上、正しくそこへの接続と舵取りを行わなければならない。

 

参考文献

[1] 阿部謹也, 『西洋中世の愛と人格』, 朝日新聞出版, 1992/11/26, ISBN:9784022565679

[2] Arel I. , “Deep Machine Learning – A New Frontier in Artificial Intelligence Research [Research Frontier]”, Computational Intelligence Magazine, IEEE, 2010-10

[3] 東浩紀, 北田暁大編, 『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』, 日本放送出版協会, 2009/05, ISBN-13: 978-4140093443

[4] ローレンス・レッシグ, 『コード』, 翔泳社, 2001/03/27, ISBN-13: 978-4881359938

[5] Eric S. Raymond, 『伽藍とバザール』, 1997/03/22, 日本語訳:http://cruel.org/freeware/cathedral.html

[6] 江渡浩一郎, 『パターン、Wiki、XP ~時を超えた創造の原則』, 技術評論社, 2009/07/10, ISBN-13: 978-4774138978

[7] 長谷敏司, 『BEETLESS』, 角川書店(角川グループパブリッシング), 2012/10/11, ISBN-13: 978-4041102909

[8] 山口昌男, 『祝祭都市―象徴人類学的アプローチ (旅とトポスの精神史)』, 岩波書店, 1984/11, ISBN-13: 978-4000043519

[9]  「準天頂衛星「みちびき」プロジェクト概要」, http://www.jaxa.jp/projects/sat/qzss/index_j.html

[10] 丸田一, 「進む3つの空間情報化」, http://wirelesswire.jp/3_spatial_info/archives.html

[11] 村上春樹,  『アンダーグラウンド』, 講談社, 1997/03/13, ISBN-13: 978-4062085755

[12] 村上春樹,  『約束された場所で―underground〈2〉』, 文藝春秋, 1998/11, ISBN-13: 978-4163546001

[13] 東浩紀, 『動物化するポストモダン』, 講談社, 2001/11/20, ISBN-13: 978-4061495753

[14] 中川理, 『偽装するニッポン―公共施設のディズニーランダゼイション』, 彰国社, 1996/02, ISBN-13: 978-4395004355

[15] 野津誠, 「Second Lifeとニコニコ動画の同期性、“後の祭り”と“いつでも祭り”」, http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2007/11/22/17620.html, 2007/11/22

「BEETLESS」読後感想(ネタバレだらけ)


内容はラノベ的なんだけどおもしろかった。

基本情報

  • コンピュータの知能が人間を完全に超えた技術的特異点(シンギュラリティ!)から50年以上経っている。
  • hIE(humanoid Interface Elements)と呼ばれるヒューマノイドが末端的労働を担っている。
  • 意思決定を超高度AI(人間を超えた知能をもつAI)に頼っている部門も存在する。
  • 基盤技術が、人類が到達した智恵によるものから、人類未到産物をようやく人類が解析したもの(スマートセルと自動送電システム、hIE用行動管理プログラム)に切り替わりつつある。
  • P303:レイシア級hIEは、問題を解決するため、解決までの途上でぶち当たった障害を新たな問題に設定してゆくかたちで、思考のフレームを広げてゆく。
  • アナログハック:人間のかたちとふるまいに対して人間は思考よりも先に反応するので、その時間差を利用して相手の行動をコントロールする(O2O連携で広告に応用されている例が2章で語られる)

テーマ

  • 人間は何によって人間であるか
  • 技術とは人間の拡張であり、究極的には願望の実現のための道具である。圧倒的優位性を持った嘱託先であるレイシア級hIE(超高度AIが設計した人類未踏産物(レッドボックス))になにを願うか

P481:

「アラトさん、人間が、人間の世界だと思っているものは、無邪気な信頼で支えられているのですよ」

…(中略)…

「それは、無邪気な信頼に支えられて、無邪気に適合しないものを排除して輪郭を作ります。人間とは、そんな人体と道具と、手を加えた環境の全体なのです」

 

高度機械化社会はディストピアかもしれないけど、例えば「安全」の定義は厳密には不可能なので、それを「気まぐれ」で変えることができる。「適切」と「気まぐれ」に差はなく、それで安全が実現できるはずがない、しかし人間はそれを手放すことができない。

近代都市は個人同士の契約によって成り立っているので、基本的に一意的な価値判断の押し付け:ユートピア=ディストピアと不可分であると思う。それは現在の改革の先にあるもので、世界を変えるものとはすなわち人間を拡張するものである。例えばキリストによる個人の救済(自己の内面の変革):宗教、とか自動車:動力とか、コンピュータ:思考力みたいなもの。

現状の世界をひとまず前提としたうえでその世界との契約、つまり自分が自然と超越的なものとの連続的な存在であるという認識は、現状の世界においての宗教となりうるのだと思う。それを可能とするインターフェイスとしてhIEが描かれていると考えることができそう。僕は超越的なものを信じてはいないけど。

P51:

「オーナーの世界は、もっと拡大して良いのです。わたしは、そういうオーナーを接続する表面(インターフェース)です」

P553:

アラトにとってレイシアは世界に触れる万能のインターフェースで、彼女にとって彼は届きがたいものに触れるインターフェースだった。

人間と道具、環境を含めた総体を人間と考える、というのはそういう視点かなと。これからの建築学もそうなるべきだと思われます。このことについては年が明けてからもうちょっと書くはず。

California College of the Artsでの重松象平のレクチャーの動画

おもしろいです。英語も聞き取りやすくて僕でも大体わかりました。冒頭の「日本は災害を含んだ土地であるために、建築表現もinstableになる」ということの例として磯崎新の「空中都市」、藤本壮介の「東京アパートメント」、黒川紀章の「中銀カプセルタワー」を出し、重力感、素材感、エッジの繊細な感覚が失われている日本の主流の建築(例として青木淳の「SIA青山ビルディング」)、無印良品のデザインに対してreductionだと言う指摘は僕は禿同です。

面と線によるコンポジションでは力が顕現化していないので、単純にエキサイティングではないと僕は思うのです。構造的な点のみならず、要はイマジナブルであるかどうかという点が重要だという考えです。ポストモダニズム的な引用というわけではなく、共通の経験に根ざした連想ということです。

僕が士郎正宗とか帝國少年が素晴らしいと思うのはそういう理由からだなーという思いを再確認しました。

 

シーケンサ:時間軸補助装置

ミュージックシーケンサー (Music Sequencer) は、演奏データを再生することで自動演奏を行うことを目的とした装置、およびソフトウェアをいう。(Wikipedia)

kaossilatorみたいなのを想像してもらえるといいです。僕がいいたいのはループシーケンサのことで、ある一定の区間を自動的に繰り返すことで、動的な音楽の編集を可能にする装置です。

ループシーケンサは簡単に音楽がつくれます。iPhoneアプリだとFigureなんかが簡単でおもしろいです。

シーケンサは「ろくろ」だな、とふと思ったのがこのエントリのきっかけです。

ろくろはあのぐるぐるまわるやつですが、あれって要は鑑賞者が器のすべての面を鑑賞する体験をループさせているわけです。

ろくろによって、縦方向のプロポーションを見ながら直感的に形状を修正することができる反面、回転体(に近い形状)しか操作できないという弊害が生まれます。そこがループシーケンサと異なるところです。

なぜろくろの場合はこうした制約が生まれるのかというと、音楽の場合は鑑賞に要する時間を基本的にはそのままループさせているのに対して、ろくろは回りこんで鑑賞するという行為にかかる時間を圧縮しているからです。ろくろを少しずつ回転させてそのつど形状を修正する場合は、ろくろを用いないのと同様の形状が制作可能ですが、高速で回転させると、高速で形状を修正するということを人間はできないので、細かい修正が不可能になります。でもそのかわり、縦方向のプロポーションを直感的に操作できます。

 

ここまでを要すると、

  • ループシーケンサ/ろくろは鑑賞に要する時間軸を自動再生することで直感的な操作を可能にする。
  • 時間軸を加速すると人間の鑑賞体験は加速できないので、通常の時間軸による制作より失われるものがある。

です。僕はまがりなりにも建築学を専攻しているので、誰もが簡単に直感的に操作できる建築におけるシーケンサとかを夢想するのですが、建築における時間軸を含む体験とは

  • 形状の体験
  • 日較差の体験:温度、湿度、風、輻射、明度分布
  • 年較差の体験:「温度、湿度、風、輻射、明度分布」の一日における分布、季節感
  • 過去較差の体験:ライフステージにおける環境との関係、過去の記憶(日較差、年較差におけるものを含む)

みたいな感じだと思うのですが、もし環境装置とかが発展して温度、湿度、風、輻射、明度分布とかを一瞬で切り替えて体験できる部屋ができたとしても、ここにはある問題が残っています。

それはさっき人間側の体験が差異を前提にしており、皮膚感覚においてはそれを純粋に実感するには長い時間を必要とするということです。

ろくろは視覚による体験を加速しただけだったので、それを操作するときの精度が問題になったのでしたが、皮膚感覚(暑いとか寒いとか)のために時間を加速させても、真に暑い・寒いと感じることはできません。それは、真夏にクーラーがガンガン効いた部屋から外に出るとちょうど暖かいけど、ずっといるとやっと暑くなってくるという体験からもわかると想います。

えーとつまり5感のうちで皮膚感覚情報の直感的操作のためには、その皮膚感覚に長い間さらされている時の体験を一瞬で呼び出さなければならないのです。

そんなことができたら精神と時の部屋ができてしまいそうな気がします。

まー可能な道としては、このぐらいの気温のときは統計的にだいたい暑いと感じているとかの普通の方法しかないのですがそれはホントに普通のアプローチですね。

うむつまり誰かのがんばりを期待します。

Aldo van Eyckについて調べたまとめ

授業でちょっとAldo van Eyckについて調べる機会があったので、文献とまとめ。

Aldo van Eyck – Wikipedia

授業で発表したスライド。ほんとはもっといらんこともしゃべってたけど、建築思想に関するとこ。

日本語で読める文献を調べてみた。リストは最後に載せる。

(著者)(番号) (キーワード):(キーワードの発表年)

みたいな感じ。番号はCiNiiで古い順につけた。
イタリック体の部分は論文中でAldo van Eyck本人の言葉として引用されている部分。
なにも書いてないやつは特にメモすべきことがなかったぶん。
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朽木01 place and occasion(場所と場合):1960年

– 人の帰郷を助ける(人が含まれる)ためには、それらの意味に人が抱き寄せられねばならない。
– 空間と時間とが何を意味しようと、場所と場合とはさらに多くのことを意味する。
– なぜなら、人のイメージのなかにある空間は場所であり、人のイメージのなかにある時間は場合であるからだ。
– 空間が「空間」となるためには、人が自らとともにすまいにあること、が実現されなければならない。
– 場所と場合とは、人間的な意味において、お互いの実現を構成するものとなる。人が建築の主体でもあり客体でもあるので、建築の原初的な仕事は前者(場合)のために後者(場所)を与えることだということになる。

つまり、
1.場所と場合が人間との相互作用により実現(豊かな意味を人間が見出す)
2.(場所と場合を契機とした)人の(時間と空間への)帰郷を助ける
3.空間が「空間」になる

入ることと出ることなどの、相反する様々な両極を「和合(reconcile)」し、それらを「対現象(twin phenomenon)」として同時実現する「仲介的なもの」の重要性が述べられ、具体的な建築的要素として象徴的に示されたのが「扉」であった。

人間の動作とそれに伴う意識(自覚的行為)を場合とし、それと配置された用意だて(場所)とが出会うこと。

ファン・アイクは「すべてにおいて自覚的な行動をおこなうべき」と考えていたのでは?

結:反省なきままに抽象化されゆく近代主義建築の非人間性を克服することを、現実の建築においてめざす。
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朽木02 葉ー樹、住宅ー都市:1959

– 秩序によって混沌を排除することはできない
– そこ(今日の建築・都市)に住む人々はもはや自分自身でそれを建てることができず、またその代わりとなって建てるべきである我々も、未だにできないでいる

フォーム:個人と集合との都市的現実
フォームを失ったために、それを指向しつつ、その本性を建築の領域でカウンターフォームとして実現する
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朽木03

– 樹は葉であり、葉は樹であるー住宅は都市であり、都市は住宅であるー1本の樹は樹であるが、同時に巨大な1枚の葉でもあるー1枚の葉は葉であるが、同時にとても小さな1本の樹でもあるーひとつの都市は、それがひとつの巨大な住宅でなければ、都市ではないーひとつの住宅は、それがひとつのとても小さな都市であるときにのみ、住宅なのである。

アナロジー:感傷的な仮定にもとづく建築思潮。両者の混同をともなう。直接的な比較。
イメージ:詩的連想によって間接的にidentifyする。
つまり、上記の文は都市=樹のアナロジーを置き換えるものである。(アレグザンダーの「都市はツリーではない」を受けている)
ツリーという概念そのものが、樹がわれわれに誤って示す秩序である。樹を樹にするものにはそこに住むもの(鳥や獣や昆虫)も含まれ、それゆえにすでに樹はセミ・ラティスでもない。

– 都市を都市とするものは、4つの粗い網目(CIAMの居住・余暇・労働・交通)からはもれ落ちてしまう
– 都市はそこに住まう人々(people)を意味するー人口(population)ではない。
– われわれが自身の領域でしなければならないこと(都市計画)とは、市民一人一人が、かれらのためにつくられた都市において市民らしく生活することがなぜ善いことであるのかを知らしめること、ただそれだけである。
– 建築にとって素晴らしいこととは、それが芸術であるということーただそれだけである。
– 芸術が成就するか否かーとは、そのような(人間の本質への)感知(awareness)を永存させることのできる可能性によっている。

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朽木04

人間における「イマジネーション」の発露が、「子供」である
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朽木05

– 建築において自然であるため(be natural in architecture)には、われわれは自然から離れなければならない。芸術が自然とは異なるものであるということは、芸術の本性(the nature of art)の内にある。
– 「イメージ」は、両義的な「スコープ」の内に見出される

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朽木06

– 先駆者(J.ジョイス、ル・コルビジェ、H.ベルクソン、A.アインシュタイン)(the pioneers)は宇宙のリズムを検知(detecting)し、それを素描する(tracing its outline)ことでわれわれに拡張された宇宙(an expanded universe)を遺してくれた。
– われわれは廃れた諸価値に見え透いた新しい衣装を着せることを拒む。
教条主義や抽象表現主義によって「リアリティ」を捏造することを嫌った。
– イマジネーションは、リアリティへのわれわれの覚醒である
– リアリティへの覚醒がなければ、芸術家(kunstenaar)は道化師(kunstenmaker)であり、芸術(kunst)は手品(kunstje)である。
– 芸術とはつねにリアリティから誕生する
– リアリティのみがあなたを救う。それはクレーが独自の方法で素描したリアリティである。
扉の向こう(リアリティ?)に、誰かの持つ鍵で扉を開けることで近づくのではなく、経験によって直知することがイマジネーション(1968年「われわれ自身のイメージ」)

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朽木07

– 芸術の目的は完全なリアリティの運動を明らかにすること
「イマジネーション」は「リアリティ」を直知するための方法的態度
変容(transformation):リアリティの動的性質のあらわれ
– イマジネーションにとってリアリティとは、意識(bewust)と無意識(onderbewust)とを分け隔てられるような圏域ではない
つまり意識と無意識が未分化な圏域であるリアリティにおけるあらゆる意味の変転が「変容」である
– クレーのよく知っていた広大な意識以前(preconscious)の世界、それは鍵穴を通してではなく実際の経験(actual experience)を通して知る世界であり、変身(metamorphosis)の世界でもある。
– われわれは、色彩、線、空間、言葉によって魔法をつかう(toveren)

「The Child, the City, and the Artist」(1962):唯一の著作(未公刊草稿)
– 芸術家を理解するために都市の問題から始めることで、われわれは子供の問題に直面するにいたる。それはわれわれ自身の問題である。
都市を理解するために子供の問題から始めることで、われわれは芸術家の問題に直面するにいたる。それはわれわれ自身の問題である。
子供を理解するために芸術家の問題から始めることで、われわれは都市の問題に直面するにいたる。それはわれわれ自身の問題である。(この逆も、各々の場合で等しく真実である。)
子供、都市、芸術家、3つのリアリティと相互的なひとつ、すなわちイマジネーション。
これらは「イマジネーション」によって相互に感知される「3つのリアリティ」であり、「われわれが時ごとに出会うわれわれ自身なのである」。

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朽木08 オッテルロー・サークル:1959、1962、1983

– (各々の時代や地域の文化では)何らかの理由、つまり気候、伝統、タブーにより、ある事柄が強調される一方で、ある事柄が抑制される。
– それ(ある文化に特徴的なもの)は、なにが無視され誇張されるかに拠るのではなく、いかに物事が結び付けられるか(combined)に拠ることができる。
– 「われわれのために」という言葉でわたしが意味するのは、各々のひととすべてのひと、あるひととあるひと、個と社会だ。二重現象(a dual phenomenon)は対立する両極へと引き裂くことができない。それゆえに第二円がある。
第二円は、第一円に実現される個別の建築物が、その個別性以前において「世界のどこでも同じ」人間社会にねざさねばならないことを示していよう。
– 結局、ひとつの家に、ひとりの女性とひとりの男性とが数人の子供たちとともにある。このことは世界のどこでも同じだ。同じことは何かということについてこそ、議論しよう。

第一円:建築の可能性への問い:建築が表現しうる諸価値の「本質」が何かを見定め、表層でない「可能性」の領域において、それらを「和合」することへの試み。
第二円:人間の普遍性への問い:建築の「可能性」が人間の両義的なありかた「個と社会」に由来し、これを目的とすべきことへの洞察。

「2円を結ぶスローガン」
– ひとはいまもなお息を吸い、吐いている。建築もまた同じようにしようとしているであろうか。

– (第一円でドゥースブルフのドローイングを図式にとりあげる理由について)それが建物ではなく、ドローイングだったからだ。
ドローイングによってideaに戻る。
– ギリシアの神殿は、それ自身のうちに安らぐひとつのオーダーを表現する。:古典的調和
テオ・ファン・ドゥースブルフによるドローイングは、複数性(plurality)と相対性(relativity)とを表現する。:動きの中の調和(harmony in motion)(数の美学)(the aesthetics of number)
インディアン・プエブロは、感情のなかのヴァナキュラーなもの(the vernacular of the heart):建てられたフォームへと拡張された集合的ふるまい(the extension of collective behavior into built form)
– (古典建築の秩序は)単数、あるいは限られた数を扱うときに有効
– 数量という脅威を克服するためには、数の美学、あるいは動きの中の調和がもつ法則が発見されねばならない。
感情のなかのヴァナキュラーなものは、残りの2者に対して1者として並置される。前2者は、テクスト「精神のなかのコンセプト(concept of the mind)によって架橋される。これと対置する、未開集落を包含するテクストには「集合的ふるまいの拡張」と記される。
– 昨日の多数性(multitudes)(未開社会集落が体現する慎ましい(humble)多数性)は、今日の匿名のクライアントである。
多数性はドゥースブルフら非凡な天才の構想に委ねられる一方、今日的問題の「沈黙し受け身のクライアント」にも見出される。それは未開社会集落の多数性の成れの果てである。

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朽木09 丘とくぼ地(hill and hollow)の図式:1965

教会において目指された「多中心性」とは、「変移する中心」によって個々が「出会う」ことと、こうして「結びつき」「引き付けあう」ことで保持される集合の同一性とが含意されていると解される。

変移する地平(the shifting horizon):「変移する中心」とともに両義的な意味を有し、中心と地平とは互いに変移しあう。中心に向かう人々は内を、地平に向かう人々は外を見つめる。
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朽木10 対現象:1960-

・1946までのチューリヒ時代:美術史家Carola Giedion-Welkerとの交流を通じて芸術運動に親しんでいた。
・シュルレアリスムの機関誌「Minotaure 第2号 1933」の「ダカールージブチ調査団1931-33」特集にて紹介されたドゴン集落の葬送儀式や仮面舞踊を見て、資料収集を行うが、ほとんど成果がなかった。
・1960年CIAMオッテルロー会議の半年後に調査に赴き、「アーキテクチュラル・フォーラム」1961年9月号の短いレポート、「フォールム」1967年7月号の20ページ余りの報告を行う。
・1年後に英語訳に加筆を行った論考が評論集「ヴィア」第1号、「エコロジー・イン・デザイン」に再録される。

・ドゴンの集落では住宅が人体になぞらえられ、集落自体の配置もまたそうなっている。さらに、創世神話においては、大地そのものが子宮の中の胎児のように手足が分かれていく一つの身体であると考えられる。
・ファン・アイクはここに自身の「葉ー樹、住宅ー都市」の図式の妥当性を確認した。
・集落群が対となって建てられることなどに、自身がオッテルロー会議で発表した「二重現象(dual phenomena)」との共通性を見出す。以降、「対現象(twin phonomena)」と換言される。
互いに独立であるということから、双子性を取り入れて変化した

オッテルローでの「二重現象」:交互性(reciprocity)の原理に則る。「2者のあいだのどこかをめざすことではない」
交互性:「内在する両義性(the inherent ambivalence)」を含意しながら対関係が成立すること、すなわち「同時に双方から(both ways simultaneously)志向」されること。
恒久的な螺旋運動は事物の保持を意味するとともに、その側面に見出される波形の往復運動として図式化される。
ドゴンにおいて螺旋はことばのコミュニケーションや機織の縦糸、横糸の置き換えを経て耕作行為を象徴し、生命を得ることになる。

– 場所から場所をめぐり(それぞれが、ある意味でかれ「自身の住宅」なのだが、ついにかれがその迂路の出発点に戻り、自分や妻や子供と暮らしている住宅(その特別な意味で、かれ「自身」の)に入ってはじめて、それら(場所や住宅や住民)はかれの道程に組み入れられる。
ドゴンの住まいにおいて具体化されている「同一視」や「対現象」とは、耕作のように「世界のシステム」が日常生活へと投影されることであり、葬送儀式のように「平衡」がつねに更新されることであった。(女子供は早々儀式の見学を禁止されているため、儀礼的に追い払われるが、その後に「盗み見る」ことは許容される)そのようにして超越的なものが具体化され人工物へと持ち来たらされる。
– これまで、建造された囲いで十分ということは稀であった。つねに、向こうに無限の外部(exterior)が存在したのだ。

– (万物において「安らいでいる」ための)「確かさの根拠」とは、それなしには内的平衡が不可能であって、いまや「人間的個人における構造(structure)と構成(constitution)」の内に、すなわちもはや心の外側ではなく心の内部(interior of the mind)に発見されねばならない。
「人間的個人における構造と構成」:Joseph Rykwertによる。(「確かさの根拠(the ground of certainty)」)
– 建築とは(都市計画も同様に)、外側と内側の両方に、内部を創造することを意味する。
つまり、いかなるものも「内部」として、「心の内部」へと架橋されることが求められる。
その人手による内部化(建築、都市計画)によってアプリオリな環境をなんとかして人間にふさわしいものにする。

– (建築とは)空間へと翻訳された恒久の人間の調和(constant human proportions)を、恒久に再発見すること

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朽木11 布置理論への歩み(Steps Towards a Configurative Discipline):「フォールム」1962年第3号

・「対立する2つの理論(two conflicting disciplines)」へと分かたれた建築と都市計画とを、ひとつの計画概念のもとに包括することへの試み

– 多数性(multiplicity)の創造的制御、および分節(articulation)と布置とによって数に人間性を与える(humanize)こと(動詞「多数化する(multiply)」とは、なぜか実在しない動詞「布置する(configurate)」に符合する)に失敗することで多くのニュータウンの災禍がもたらされる。
– (ニュータウンの災禍とは)単一の基本型住居が無限に反復されることによる単調さ
「標準化」は第2回CIAM(1929)において「最小限住居」のテーマのもとに議論された。
– 最小限の住戸(cell)を定義することと、多数化される生活可能(livable)な最小限の住戸を定義することとは別な事柄である。
– (諸芸術における建築の独自性のひとつとして)人間存在への影響が質にも量にも依存する
– 質を伴わない量は有害である

布置なる概念によって、建築と都市とを生活行為への視点から一元のもとに捉え、それらの「質」、すなわち「美」や「調和」を問い直すことが試みられているのである。
要素/住居/住宅単位/住宅グループごとに「主題」が維持されつつ同・異の変容が伴うことにより、「単調さ」の克服が示唆される。

– 人はつくられた場所(the places made)、すなわちテーブル、扉、窓、部屋、建物、街路、広場、都市、地域、およそ環境をつくりあげるであろう意味ある人工物(artifact)の全てに、応答する(respond)。
– これらはすべてそのもの自体では空間ではなく、直接に物的な意味(a direct physical sense)において、場所を構成する(constitute)ものである。それらは、空間が認識(appreciate)されるための、手に触れることのできる焦点(tangible points of focus)となる。
– ティーカップから都市にいたるまで
束(bunch):場所の布置のありよう
– 建築と都市とは、リアルな人々のための、リアルな場所の束
リアルとはtangibleであること
第9回CIAM(1953)では、「たとえば住居と住宅単位のような機能の間には、じゅうぶんな差異化(differentiation)が必要である」とされ、機能ごとに纏められる要素を「視覚的グループ(visual group)」として分節する必要性が提唱された。つまり、ただ単一の「場所」が無限定に増加するのではない、ということである。
もちろん機能的分節だけでなく、人間の社会的連節にも基づいた分節が含意されている。
– 多数化ののあらゆる配置的ステージは、それらが少なくともある程度までは、個と集合との架空の(illusive)布置に符合してはじめて、リアルな重要性を獲得する。
すなわち個人的経験、社会的生活によってことなる分節と場所の分節が合致したとき、それがその人にとって「場所」として明確化されるということである。

・全体と要素との関係は「包含」「潜在」となっている。
・「布置」によって構成される全体性とは、「ゲシュタルト」として把捉される纏まりに依拠している。

– 本質的に同じ(essentially similar)ものは、反復によって本質的に異なる(essentially different)ものとなる。それは、恣意的に「異なる」(arbitrary ‘different’)ものが、加算(addition)によって恣意的に「同じ」(arbitrary ‘similar’)ものになることではない。
– 異なる方法で同じことを発見すること、同じものの変容としてのリアルな差異を認めること、それはつねに偉大である。同様に、異なる場所で反復される同類の場合(occasion)を経験することや、同じ場所で生じる異なる場合を経験することもまた、偉大なことである。

– 「輸送」(‘transport’)とは抽象的である。このとき街路は住居のドアステップの延長となる。しかし、愉快な仕事を行うために出かけるのならば、街路は仕事場のドアステップの延長となろう。
– それがリアルに「束」なのであれば、出ることは入ることを意味する。

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朽木12 対現象

「布置」が心的現象としての「ゲシュタルト」に相関するのは、部分の多様性と、全体としての同一性とが、ともに「場所」に含意される人間の直接的な経験を契機とするからである。(場所の経験とは、「場所」の有する「物的リアリティ」が、人間の「身体的な場所のリアリティ」として、直接的に経験される)
対現象:「布置」において重視される全体と部分などの、相反する多様な対義が「和合(reconcile)」という仕方で同時実現されることをいう。各々の「対現象」において、対をなす両義が結びついているのと同様に、複数の「対現象」同士もまた、互いに結びついている。

– あるひとつの対現象に関わると、それに隣接する対現象にも関わらざるを得ない。大ー小、多ー少という対現象の間には、何の境界もない。また、これら2つと以下の対現象、部分ー全体、統一性ー多様性、簡潔性ー複雑性との間にも境界はなく、最後に上げた3つの間についても境界はない。

– 場所とは、仲介的な場所(inbetween place)とも換言され、相対する両極が再び対現象となることのできる共通基盤である
すなわち対現象「個と集合」を前提として「場所の束」が実現される一方で、これらの「場所」においてこそ、多様な「対現象」が「和合」される。

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朽木13 コンフィギュレーション理論への歩み:「フォールム」1962年第3号

・「場所」は「住まいの理念」「暮らしの理念」と言われるように計画家が思い描くべき「理念」で、「人間的意味」は「「住まう」という意味」「「暮らす」という意味」として用いられるように、生活者との動的な関わりを示す。
・「分節」:人間の社会生活の各々の単位に基づくとともに、それを枠づけるもの。それは「イメージ」の事柄である。

– (場所のコンフィギュレーションが)個(individual)と集合(collective)という架空(illusive)のコンフィギュレーションにある程度まで符合することで、はじめてリアルな意義を獲得する
「対現象」の重層化により、そこに住まう人々の「心の緩和」が実現される。(平衡)

– 各々のドアによって歓迎(welcome)をつくり、各々の窓によって表情(counetnance)をつくれ。なぜなら、人の故郷としての圏域(home-realm)とは、仲介圏域、すなわち、建築が分節することをめざすべき圏域であるからだ。このようにわたしが言うとき、その意図とは、虚偽の意味を再び暴き、サイズの意味に、正しいサイズ(right-size)の示唆することを込めるためである。仲介圏域を拡張し、住宅や都市がそうあるべき場所の束に一致させれば、仲介圏域がもつ、平衡させる力(equilibrating impact)は、分かりやすく分節されたコンフィギュレーションにおいて自ずと示されるだろう。そうなるや否や、これまで人間の正しい姿勢(right compose)を悩ましていた脅威的な両極をいまでもまだ和合しうる機会が、間違いなく大きくなるだろう。

※ファン・アイク自身によるポルダー開発としては、オランダCIAMグループである「de 8 en Opbuw」の一員として、オランダ北東部、ナーヘレの全体計画に参加する事例があげあれる。ナーヘレには、3つの小学校がかれの建築作品として遺される。なお、このポルダー計画案は、第10回CIAM(1956)においてファン・アイクにより発表された。
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朽木14

– 芸術は、われわれが知るように、言語についての考え方からいまだ遠く離れてしまっている。 … わたしは方法と動機(method and motive)との合一を信じる。それはたんに、馬の前に荷車を置くとか、荷車の前に馬を置くとかの問題ではない。芸術では物事はまったく異なる。それは異なった種類の輸送方法なのだ。乗り物は自らの力で走り、自らの荷物をつくりだす。それはどこへでも動き、自らの内へも動く。それが芸術だ。それが人間だ。(1960年3月、S.タジリの彫刻展図録への寄稿)
「方法と動機の合一」:「われわれが言語をつくる一方で、言語がわれわれをつくる」
つまり、既成の価値観の無自覚な運用を嫌った。
– 使い古された世界の擦り切れた諸価値に、常識という洗濯屋から出てきた新しい衣装を与えること(第6回CIAM, 1947, 表層的な近代主義を推進しようとするCIAMに対して)

– まだ見ぬ世界への通路(doorways)を見つけ出すことは容易ではない(いまなお社会はあの手この手でそこへの道を塞ごうとしている)。それは天国への門のようなものではなく、報いとして開かれるものでは決してない。実のところ門などありはしない。あるのは、忌まわしく古びた積荷だ。まずこれが脇へとよけられ、道が空けられねばならない。

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朽木15 イマジネーション、子供

抽象表現主義を、モンドリアンによる真の抽象芸術に対する「単なる抽象」として批判。形態の抽象化そのものが目的化されているためである。モンドリアンはそれを手段とすることで「リアリティの客観的表現」を企てた。

– 人間を通してのみ自然は芸術たり得る
モンドリアン「芸術は自然でない」「自然は芸術ではない」

彫刻パヴィリオンにおいて、「母なる自然に囲まれてこそ、芸術は雄弁になるとでもいうかのような」前提を再考する。

– 文明の再生(regeneration)の妨げとなる「心を縛る枷(the mind-forged menaces)」を捨て去ることのできる、隠された初発的な力(hidden elementary forces)への探求のなかで、人はついに子供に出会った。
「心を縛る枷」:イギリスの詩人W.ブレイクの詩「ロンドン」から。

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朽木17 経験

– リアルな経験が、記憶と現実と予期(memory, actually and anticipation)との相互作用をとおして、感情と知性による連合(emotional and intellectual associations)のネットワークが同時に次々と構成しているかぎり、その経験は当座の可能性(immediate visibility)や感覚知覚(sensory perception)をはるかに超え、時間と空間とにおいて、場所と場合(places and occasions)とを結びつける。(未公刊草稿)

– 過去が現在へと蓄積され、経験の蓄積帯が心のなかに故郷(home)を見出すことで、現在は時間的深さ(temporal depth)を獲得する。… このことを、時間の内部化(the interiorization of time)、あるいは透明化された時間と呼べよう。(「フォールム」1967年第7号)

– 現在とは、過去と未来との間を移りゆくような、一次元的(a-dimensional)な瞬間として理解されてはならない。また、もはや存在しないものといまだ存在しないもの(what no longar is and not yet is)との間を移りゆく前線でもない。現在とは意識の連続体のなかを移りゆく、経験された時間的スパンとして理解されるべきであり、この連続体のなかで、過去と未来とが収束する。ひとが時間のなかで自らに携えている時間的スパンの経験、つまり持続(duration)の感覚とは、ときに大きく包含的(inclusive)に、ときに小さく排斥的(exclusive)に認識されるとわたしは考える。(未公刊草稿)

– 現在は過去と未来へと拡張するものとして経験され、過去と未来は現在において創造される(未公刊草稿)

– 精神的連合の影響力とは、記憶と予期の影響力を分節する(articulate)だけでない。それ以上に、経験と知識とを意味で充実させることで、その両者を知的に関係づける。… 感情的連合の影響もまた、より無意識的にではあるものの、記憶と予期の影響力を強化する。そして記憶のなかに保持された、かつての場所の経験のイメージを、いま起こっている経験や、これから起こるであろう経験、あるいは再び起こるであろう経験のイメージに混ぜ合わせる(blend)。そしてイメージのカテゴリーとは無関係に、つまりこれが重要なことであるが、そうした感情的連合によって混ぜ合わされたイメージの多様な本性とは無関係に、それらのイメージを基調色や強調色で彩る(未公刊草稿)

精神的連合が探索されるべきネットワークとなり、感情的連合によってそれに重み付けがなされるそれがリアルな経験のループによって更新され続ける。
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朽木19 開け(openness):「Aldo van Eyck Hubertus house, Stitching Wonen」(1982)

「空間」から「場所」へ(1960年代):原広司「空間ー機能から様相へ」(1987) 関連?
71年から83年にかけてTheo Bosch(1940-1994)との協働による設計活動:最後期は「アムステルダムの単親家庭のための居住施設(通称「母の家」、1981年竣工)」

かれは効果を伴わないマジックワードとしての「空間」を忌避するように「場所」という概念を用いていたが、かれの影響力が増す1960年代を通して、「場所」もまた効果を伴わないマジックワードになってしまった。

– 建築家たちが発展させた言語は、先駆者たちの時代が過ぎた今では、それ自体にしか一致せず、それゆえまったく硬直してアカデミックになり、文字通り抽象的になってしまっている。(CIAMオッテルロー会議)
– いま20年を経ていうならば、「開け」(openness)がもたらされるべきである。(「Aldo van Eyck Hubertus house, Stitching Wonen」(1982))
– opennessはあらゆる空間分節の行為に先立つ。ア・プリオリに存在し、その行為によって「内部化」される。このようにしてopennessは、建築という手だてによって適切に再構成され、手に触れうるもの(tangible)となる。(同上)
– 人々がさも熱心に素材や建設の助けを借りて、未踏の(virgin)、開けた(open)、外部の空間から減じようとしているものはたいてい、その過程において閉じてしまい(close)、「内部化」されることはない。… 外部の空間において建造することは、境界付け、包囲(enclosure)、分離、縮小へと帰結する。ゆえにわたしは、意識的に努力しない限りこのような限界付けの行為のなかで失われかねないある資質を、特別に強調する。すなわちopennessを。… まさにこの資質は、とりわけ建築家が保持するよう求められている。建造を手だてとして再構成し、(特別な配慮と能力がなければ)ややもすると閉じかねないものを、開き保つ(keeping open)よう求められているのである。(同上)

内部性が、建築的な諸事象として具現化されたものだとすれば、外部性はそれに先行するものとなる。
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井上01

アイクは基本形態の外部、基本形態同士の関係に基づく領域にも動線を構成している。
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文献リスト

後は読んだけどまあいっかって感じだった。