ちょうど最近、三度目の『君の名は』を観た。三回くらい観たことでようやく物語の全体像や監督の意図がわかった気がする。そして感じたのは「こんなお手軽な人生があってたまるか」である。

『君の名は』では、主人公(瀧・三葉)はかなり受け身である。

なんか気づいたら女の子と入れ替わっていて、気づいたら都会でキラキラした学生生活を送り、気づいたら憧れの先輩とデートしていて、気づいたら恋をしている。瀧がやったことと言えば、飛騨に行ったことぐらい。三葉は東京へ。会社員の週末旅行か。スマホがあればほぼ世界中どこへでも問題なく行けてしまう現代においてこれが三葉を救う決定的トリガーになるというのは、人生イージーモードすぎないか。三葉に至っては、自分と周囲の人々が消滅してしまうか否か、しかも一度も失敗できないという状況で瀧の名前を気にしている。(そして瀧の名字が「すきだ」であることを知る。(嘘)) オカリンが助走つけてぶん殴るレベルで呑気だ。明らかにこの作品世界に生きていない観客目線でこの状況を動かしている。 別の言い方をすれば、体重が乗っていない。

もし自分がシナリオを描くのであれば、まださらにいくつかの困難を設定するだろう。校庭への避難が成功しても時空改変の影響で隕石の軌道がズレ、やはり校庭も壊滅的被害を受けてしまう。生き残ったのは三葉だけ。組紐の霊力が護ってくれたのだ。呆然とする三葉の上には、爆風で吹き飛ばされた湖の水が雨のように降り注ぐ。既に水の減った湖底には、丘のように盛り上がった部分が現れていた。その上には、1000年前の隕石を祀った祠、そして宮水神社初代神主の収めた組紐が。三葉は、二葉が死の直前に遺した言葉を思い出す。「山の窪みと窪みの山。水と人をつなぐのが宮水の力なんやよ。。」そう、山の祠と池の祠は対になっていたのだ。三葉はオババに言い聞かされた通り、自分の組紐と古の組紐を結ぶ。そして時空の結び目は再び接近する。。。目を覚ましたのは、柔らかな日差しの降り注ぐ小高い丘の上だった。それを目撃した奴隷の青年、タキ。なんと三葉は1000年前にタイムスリップしてしまったのだった。タキは生まれながらに不思議な力を持ち、未来が見えるのだという。そして1週間後の祭りの夜に、空から火が降ってくる夢を見るタキ。ムラオサの息子、テシカワラはタキを信じることに決める。三葉とタキは、村を救うことができるのか。そして星の降る夜、二人に再び奇跡が訪れる。千年の時代を越えた恋物語、この夏、最高の感動が君を待つ。

はい。

困ったことに、「コレいいな」「こういうことになりたいな」っていうシーンが多いと、観客は満足してしまう。観客は人生を食べるのではなく、情報を食べるのである。特に考えなければ見終わった感想は「感情が揺さぶられて面白かった」になってしまう。ちょっとしたアクションで世界が激変してあなたがヒーロー or ヒロインになる。アオハルかよ。1)個人的には、glitch的なデザインやデジタル露悪主義みたいなカオス系デザインも似たようなものだと思っている。インスタント超越スキンというか。あなたは変わらないままで超越したような気になれるというポルノ性がある。これでは小学生のテロリスト妄想と変わらない。今までの人生のコンフォートゾーンや認識が書き換わらない程度の範囲で解決ができてしまう。そのような行動規範の下ならば、本当ならどこにでも行けるはずの世界で「どこにも行けない」と考えるのは必然だ。

思えば新海誠という監督は、徹底して「自分」語りを避ける傾向にある。作品に醜い自己を晒さないだけでなく、自己が投影されることを恐れた自己防衛ナルシスト的なキャラ造形だけで物語を動かそうとする。散々言われていることだが、なぜあんなにも美しいビジュアルを作ることができる(それには観察眼や努力に対する考察が人並み外れているはず)なのに、登場人物がペラペラなのかとても不思議なのである。それに対する答えは、自分を出すことを嫌っているか恥じているかじゃないだろうか。ずっと忘れている気がする何かを探しているのではなくただ単に自分の世界認識が破壊されることを恐れ、ちょっとしたことで自分を卑下して痛みを味わってみたりすごいことをしたと思い込もうとする。ずっと続いている現在の自分のあり方がとてもドラマティックなものであると追認識したいのだ。あ、そう考えればありふれた風景をとても美しく作ることのできる彼の能力はとてもこの認識を補強するものでもあるな。

私は何も『君の名は』が売れているから妬みを言っているのではない。「こんな作品が売れるべきではない」と売れない芸術家みたいなボヤキを吐きたいわけでもない。面白いか面白くないかで言うと間違いなく面白い。私が言いたいのは、「売れるものをつくるのならばその影響力に対して責任を負うべき」ということだ。前述したように情報を食べさせれば多くの人が満足する確率は上がる。その一方で、多くの人の時間を奪って物語を刷り込んだ結果に対する責任は問われない。売れた作品はマネされるのだ。エンタテイメントにおいてこれは創成期から続く問題である。売れた作品が影響力を持つ一方で、その作品の「深み」は監督や脚本家・プロデューサーの善意に完全に委ねられている。多くの人の考え方や後続の作品に影響を及ぼすことがあってもだ。

『天気の子』が、良識ある作品であることを望むばかりである。

脚注   [ + ]

1. 個人的には、glitch的なデザインやデジタル露悪主義みたいなカオス系デザインも似たようなものだと思っている。インスタント超越スキンというか。あなたは変わらないままで超越したような気になれるというポルノ性がある。

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