社会には人間がある程度の公差で生産されるという前提で定められたルールが多い。人間の物理的なサイズに限った話ではない。多くの場合人間の意志は個人に対してユニークであると社会では仮定されている。例えば国籍や選挙権、義務などが個人に対して1対1に結びついている。それら1つ1つの個人が等価なものとして社会システムは構築される。これはルネサンスの思想によるのだろう。
SNSの発展した社会ではヴァーチャルな人格が1人の個人から多数構成可能であり、それらのオペレーションは計算機により人間の物理限界を越えて行うことが可能になっている。アメリカ大統領選挙へのロシア政府のフェイクニュース攻撃など、こういったことは現在頻繁に観察されているが、群衆としてふるまう個人がもっと増えてくると相対的にその特殊性が浮き彫りになってくるものがある。
マスメディアである。マスメディアは1つの意志個体であると考えることができる。1つ1つの個人が等価なものとして作られた社会システムの中で緩やかに1つの意思として存在しているのにもかかわらず、群衆の力を持っている。つまり社会においてはチート的存在だったわけだ。近代の強力な為政者がマスメディアを有効活用してきたことは公然の事実である。
この視座から見ると、フェイクニュースというものの存在がひっくり返る。「フェイクニュース」がフェイクなのではなく全ての情報は多かれ少なかれフェイクであり、今まで数少ないメディアが発信したフェイクが「真実」と呼ばれていたに過ぎない。民主主義とは、「真実」(=情報発信権を持つ者の作り出したフェイク)によって統一させれた意思を持つエージェントが多数派になるゲームだ。ここでは「情報」こそがフェイクの定義である。
なにを当たり前のことを、と思われるかもしれないが、大事なのはここからである。
「真実」以外のフェイクが溢れかえる。これは「フェイクニュース」として問題視されていることの1つである。しかし「真実」自体がフェイクである以上、「フェイクニュース」を殺菌することは不可能だろう。
良識のある「フェイク」が増える。ファクトに基づいていたり、数理的なモデルや優れた知識や実践などだ。これらが大きな力を持つ時代は、「真実」というフェイクによって進歩していた時代よりも堅牢な社会システムとなりそうな気がしないだろうか。
そんなのはエリート主義ではないか、と思うかもしれない。しかしマスメディアが大きな力を持つ時代も実体は選別者による意思決定が行われていることに変わりはなく、その選別作業は秘匿されている。偶然権力を持った人の良識に賭けるガチャだ。
どちらにせよこれは、避けられない流れである。仮想的な群衆を束ねたクジラの殴り合いの時代。知的エージェントとしての生存戦略があるとすれば、次の一言だ。
群衆としての力を求めよ。
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