なにかすごく遠い世界に行けたり、すごく不思議なことがゲームの中ですら起こるような予感。

幼い頃僕がゲームにワクワクしていた理由はそのようなものだったと、今では説明できる気がする。

たとえば僕が初めてポケモンを知ったのはコロコロコミックの漫画だったけど、なんとなくそれでピッピとかヒトカゲとかの可愛かったり強かったりするポケモンが人間と一緒に暮らしている世界だと知ったわけだ。そのうちコロコロ購読者だけがポケットモンスター青版を買えるだの、幻のポケモン ミュウがもらえるだのというキャンペーンを始めるようになる。僕はありがちな子供の一人として広告を文字通り受け取り、ポケモンのゲームの中には自分だけが特別に手に入れられる世界が隠されていて、ミュウだけじゃない神秘の世界に自分が出会えるのでは、と期待を持ってポケットモンスター青バージョンを始めた。ゲームの中に構築された世界(日常)における「非日常」への憧れは、裏技という夢のテクニックに収斂し、日々いろんな場所でセレクトボタンを押しては神秘を探していた。

1年後にはポケモンのアニメが始まった。田舎ではTV東京の電波が入らないので見ることができなかったが、1話の冒頭でホウオウなる「あり得ない」ポケモンが登場したということは雑誌を通して知っていた。しばらくするとデンリュウだのドンファンだの、今まで僕が知っていたポケモンとは似ているようで全く違うポケモンたちがコロコロコミックのゲームページに掲載され始めた。いままで僕たちが冒険していた地方の他にも世界があり、そこでは全く違うポケモンたちが暮らしている。それは僕が探し求めていた神秘そのものだった。当然のようにポケットモンスター銀を購入し、ハマりにハマった。。。

こうして今思い返すと、僕のゲームへの憧れは「ゲーム内で構築された世界を日常として受け入れた上で、さらにその外側の非日常への憧れ」であったことがわかる。「自分にもかめはめ波が打てるかも」とか「魔法が使えるかも」みたいなものと同じ気持ちだ。なのでポケモンに限らず他のゲームでも夢中になったものは同じような気持ちを抱いていた。たぶん世代が違う人はゼビウスとかに似たような感覚があったのだと思う。

しかしいつの日からか、僕はそうした無知から来る憧れを失ってしまった。

ゲームの世界はプログラムされたもので、それ以上のことは起こらない。現実世界で暮らす人間の想像力の範囲の外側には行けない。その限界はゲームプレイを始めた瞬間から決まっていて、いくらプレイを重ねたところで神秘の扉が開くことはない。

ARIA 10巻47話、アリス・キャロルもまた悩んでいた。

14歳のアリス・キャロルは子供の頃サンタや神話の人物へ憧れていたのに、大人になるにつれだんだんそのどきどきわくわくが小さくなっていくことを辛く思っている。体中を満たしていたあの感情が小さくなってしまうのならば、大人になるのはなんとつまらないことだろう!自分も退屈な大人の一人になってしまうのかもしれない。それはとても悲しいことだ。1)これはもしかしたら多くの人が20代中盤~30歳ぐらいで感じる人生に対する諦観に似ているのかもしれない。つまり、若いときは自分が歴史に名を残すほど優秀で特別で、その才覚によって秀才として周囲に認められていく、というような「非日常」と現実との加速度の違いを、人生の残り時間を自覚することで理解し愕然とするそのやるせなさに。

最終的にアリスは先輩の言葉によって救われる。

それまで与えられるだけだっためくるめく世界を、自分の手で作ることができる。心で広げることができる。それは子供にはできなかったことだ。

ゲームの話に戻ろう。

今の僕がゲームを楽しいと感じるのは、作る側のテクニックやアイデアに驚いたときや戦略ゲームなどで自分の能力の向上を認めたときだけになってしまった。もしゲームも作ることができるようになれば、文章や絵のように作りながら自分の想像しなかったところにたどり着けるという楽しみもあるのかもしれない。

こどもの頃の僕はなにかを見た時、「その世界における日常の、さらに外側に広がる非日常の素晴らしさ」を見ていた。おとなの僕はファンタジーの中でさえ起こりうることを知っているから、作った人の世界の外側を見て素晴らしいと思うことができない。そのかわりに、「それを作ることの難しさや現実的な影響がいかに素晴らしいか」を知り、そして「それを作る人の世界がどれだけ広がったのか」を想像することができる。2)このこども―大人の違いは、おそらく「キャズム」論におけるイノベーター・アーリーアダプターに属する多くの人とアーリーマジョリティ・レイトマジョリティに属する多くの人との間の違いに近いのではないか、と思う。専門知識がある人は現実的な可能性にいち早く気づくことができるし、今までにありそうでなかった製品のニーズそのものを持っている。日和見的な人々はどちらかというと人々が熱狂しているというその外側の世界をおもしろいと思って船に乗り、そして船が宇宙へと飛び出さないことに気づいてバブルは終わる。

結局ゲームに限った話ではないのだけれど、だからゲームをかつて僕がそうして楽しんだように楽しめる人を心底羨ましいと思うし、そうした人を喜ばせるものをゲームであれなんであれ作れたらそれが正解なんだと思う。

脚注   [ + ]

1. これはもしかしたら多くの人が20代中盤~30歳ぐらいで感じる人生に対する諦観に似ているのかもしれない。つまり、若いときは自分が歴史に名を残すほど優秀で特別で、その才覚によって秀才として周囲に認められていく、というような「非日常」と現実との加速度の違いを、人生の残り時間を自覚することで理解し愕然とするそのやるせなさに。
2. このこども―大人の違いは、おそらく「キャズム」論におけるイノベーター・アーリーアダプターに属する多くの人とアーリーマジョリティ・レイトマジョリティに属する多くの人との間の違いに近いのではないか、と思う。専門知識がある人は現実的な可能性にいち早く気づくことができるし、今までにありそうでなかった製品のニーズそのものを持っている。日和見的な人々はどちらかというと人々が熱狂しているというその外側の世界をおもしろいと思って船に乗り、そして船が宇宙へと飛び出さないことに気づいてバブルは終わる。

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