衆愚と批評

社会学的批評が語らなければならない問題は、「流行っているこれは何か」ではなく「なぜこれが時代の必然として流行るのか」だろう
そういう意味ではSNS以前と以後で批評の形が変わっていないことは明らかにおかしい
ポップカルチャーすら生き抜いた批評が現在形を無くしているように見えるのは、批評というものが「優れた小数の人による洞察」ではなくて単に「たくさんの人が見ている意見」に過ぎなかったということだ。近代において文化の担い手が大衆に移ったとしても、メディアに言葉を載せるのに能力やコネが必要だった時代では良識ある発言者の言葉だけが批評になる可能性を持つことができた。SNS以後、誰かがシェアしたものだけがメディアとなる時代ではまず誰かの共感を得てはじめて言葉は広がり始める。必然として全体の意見は衆愚になる。
批評が現在取り組まなければならないのはこの衆愚であり、それは建築においても政治においても社会学においても変わらないんじゃなかろうか。そして時代の波に乗るしか文化の生き残る道はないのだとすれば批評は言葉を捨てなければならない。なぜならそれは共感を得るにはあまりにも抽象的すぎるからだ。言葉としての批評は唯一、後世から見た時代のリファレンスとしての役割を残して死んだ。ペンが剣や銃よりも強い時代は終わっているのだ。

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