世界のすべてがカラフルな砂粒になって入っている大きな水槽がある。あらゆる人がその水槽に何度も手をのばし、価値のあるものをすくいだそうとしている。

すべてをすくうことはできない

それを知っているだけで全能であるかのように振る舞い粒をこぼす人を糾弾し、手の隙間からこぼれ落ちる世界の粒を見ようともしない人たちがいる。

自分の集めた粒を省みることもなく、なにかを手に入れたことだけを自慢気にしゃべる。

それは、自分だけの夢を語っているように見えて、人の物語を寄せ集めただけの醜さに気づかない裸の王様だ。

ジョブズか、ホリエモンか、なんでもいいが、誰かが達成した物語をアレンジしたそれはみんなの物語とまったく同じじゃないだろうか。

100年後の子どもたち。彼らが同じように寄せ集める物語の粒の中にそれらは入っているだろうか。

水槽の中からすくい上げ、手の中に残った粒の中にほんとうの世界がある。水槽に手をのばした人中の、ほんの一握りの人がほんとうの世界を見つめ、さらにそのうちのわずかな人だけがそれを切り開き刻み煮詰め、ほかのものよりも圧倒的に強く見える粒を作る。

あらゆる人が手をのばす粒になる。100年後の水槽にはその粒が入っている。

僕にもその粒をつくることはできるのか?とても不安になる。

 

お母さんが僕を優しい子だと言い、僕はもっと人に優しくあろうと思った。

人に教えることを先生から褒められ、人に教えるとき自分が学んでいることを知った。

誰かの言葉が僕の中に残って山になっていく。僕は山をもっと高くしようと思う。

僕のほんとうの世界はそのようにして作られていた。

 

僕の言葉を人の中に残すことで僕は世界に偏在し、より強くあらねばと思う。

山の柱を取り出して見せた方が人の中に僕は残りやすいことを学ぶ。

多くの人の中に僕の山の柱を残すことで粒は形を帯びてくる。

 

粒は、出来るか出来ないかでは無かった。

金平糖のようにだんだん大きくなり、鋼のようにだんだん強くなり、宝石のようにだんだん輝きを増し、海のようにだんだん深くなっていく。

それが他のだれよりも突き抜けたとき、一目見て他の粒とは違うものになっている。

 

今集めている粒が自分の糧になるかはわからないが、ゼロということは無い。

いくつも粒を集めてみなければ、ほんとうの価値を見つけることも出来ない。

誰もが自分の粒を作ることの出来る世界を目指したい。

世界のほとんどを手の隙間からこぼしながら、それでも水槽に手をのばすのは、そのためだと思う。

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