マニュアルというと、獲得したノウハウを、それを知らない人でも使えるようまとめた本のことである。それは確かにそのとおりであるが、実際にやったことない人が見てもよくわからない事が多い。全体のイメージがつかめていないからだ。そういう人に必要なのは、この操作をしたら次はこうで、というようなチュートリアルであり、それによってまずはわからないままに実際にやってみて、イメージをつかむ。これで次は問題を解くなかで必要な知識を身に着けていく。問題解決型学習(ジョン・デューイ?)の入り口である。ドットインストールなんかはまさにこれ。
じゃあマニュアルはなんなのかというと、自分が習得してきた点と点を結ぶ線を引くことである。もちろん言葉の定義を厳密にしなければならず、それゆえに新たな学習の土台となることができる。
いちばん重要なのは、本人がそれを見返すたびに、それに関わる学習の過程を思い出すことができるということである。
記憶や思想は反復によって達成される(それゆえにピークシフトを起こすことがある)ので、言葉の選び方は慎重でなければならない。

例えば、古事記・日本書紀がある。これに遡ることで日本のアイデンティティを確かめる。伊勢神宮の式年遷宮が原初を模造することでアイデンティティを次第に強くしていく(磯崎新「建築における「日本的なもの」」)。それは外国にとってみればその成立・存続のシステムは別として、国家としてのアイデンティティを意味するものでないのは当然である。他人から見たマニュアルとはそのようなものである。

そのシステム自体を破壊するというシステムを含む思想が芸術である。岡本太郎は弥生以前の縄文に潜むエネルギーを契機として「芸術は爆発だ」といい、沖縄のシステムを暴いた。
いっさいを捨てて新しいことをできるというのは並の人間にはなかなか難しいが、それ故にそれが時代を作ることが多い。そこに悲しみや喜びは普段より多いだろうが。
オウム真理教では出家の際に自分のすべて(家族・財産・交友関係)を捨てることになるが、その後は仕事も与えられ、自らの研鑽という名目のもとで毎日を生きていける。その中で生きるのは楽しいだろう。
グルに自己を帰依するというシステム上、グルが方向を誤った時に止めるものがないという欠陥が指摘されているが、代議士制もまあ似たようなもんでもある。
数年に一度レビューを行うというシステムでは、その数年の間の過ちは止めることができない。
なにが言いたいのかわからん。

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